葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第2節 現在の葛飾

■安全で安心して暮らせるまちづくりへ :3・11 東日本大震災発生 ──あの日、葛飾区は

 平成23(2011)年3月11日午後2時46分に三陸沖の深さ約 24㎞を震源とするマグニチュード9.0、宮城県北部で最大震度7の地震が発生した。地震の揺れおよび沿岸部で発生した津波により、東北地方から関東地方にかけて広範囲に甚大な人的・物的被害注釈2をもたらした。葛飾区でも、震度5弱を記録し、区は災害対策本部を設置し、情報収集と応急対策に当たった。同日夕方の第1回本部会で区内の被害状況を確認後、小中学校73校を含む避難所75カ所を開設した。これは震災直後から交通機関の停止によって行き場をなくした人々が、青砥駅や新小岩駅などの主要駅を中心にあふれていたためで、避難所は深夜までに1000人を超える帰宅困難者注釈3を受け入れた。また、多くの保護者が保育園などに預けた子どもを迎えに行くことができずにいたため、避難所や保育園は朝まで対応した。
 その後も区は、水元学び交流館を避難所として開設し、被災地からの避難者の受け入れを行った。
 葛飾区は、各方面の対応に追われる中、翌12日から「災害時の相互応援協定」締結自治体へ順次物的支援を行った。
 被災地への支援は、物的支援だけでなく、人的支援にも及んだ。葛飾区は、宮城県や福島県の各市町村へ職員を派遣し、被災者の生活や健康に関する行政事務に従事する人的支援を行った。平成23(2011)年度には7自治体へ延べ75名、それ以降も宮城県の石巻市岩沼市や南三陸町へ職員を派遣している。

東日本大震災による葛飾区の被災状況

平成23(2011)年3月12日の木根川橋少年野球場。地割れが起こっている。
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注釈2:死者1万9533人、行方不明者2585人、住宅全壊12万1768棟、半壊28万160棟(平成29〔2017〕年3月1日現在、消防庁災害対策本部発表)
注釈3:震災などの影響による交通機関停止のため、自宅へ帰ることが難しくなった人々のこと。帰宅難民ともいう。東日本大震災では、交通機関の麻痺、電話など通信手段の不通、さらに金曜日という条件が重なり、自宅や家族の安否を気遣う人々が徒歩で帰宅しようとした。都心から千葉方面へ向かう葛飾区内の幹線道路では、深夜まで列をなして歩く帰宅者の姿が見られた。