葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第1節 南葛飾郡の時代

■大東京誕生の機運 :葛飾区域の状況

 隣接する郡部の町村でも、東京市への合併を期待する機運が高まっていた。これらの地域は、人口が増加した結果、住民の子弟を教育する小学校などの教育施設の整備が急務となった。また上下水道の整備や医療機関の誘致、道路整備など都市的な町への改造が求められ、この財政負担は大きな問題であった。
 昭和26(1951)年刊行の『新修葛飾区史』には外編として「葛飾区の思い出を語る座談会」が掲載されている。ここに出席している人達は市郡合併前後に区域の各町村の町長などを務めた有力者達である。この座談会から市郡合併当時の雰囲気を知ることができる。
 出席者の1人、新宿町の元町長の発言によれば、同町ではもともと財政に困ることはなく、「金が余ってしょうがなかった。税金を徴らないですんだが、徴らないと叱られるので税金を徴ったふりをして誤魔化した」という。また「町内の税金の半分は大工場が負担してくれていた。これが東京市に合併される直前に住吉小学校を建てたところ、経費があまりにもかかるので、町長弾劾という騒ぎになった」と書かれている。このように教育費の膨張はどこの町村も同じで、南綾瀬町でも「町の予算の3分の1は教育費」であったという。
 学校へ通う子弟を持つサラリーマン層の人口が急に増加したことにより、教育にかける経費の負担に苦しんでいたことがうかがえる。市郡合併はこうした状況を解決できる方策と考えられ、合併に関する具体的な議論が進んでいった。

金町村役場(大正10〔1921〕年)
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関東大震災後の人口の推移
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