葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾の村 :徳川家康の江戸入府

 天正18(1590)年3月、豊臣秀吉は5代にわたり関東に勢力を持ち、小田原に本拠を置く戦国大名であった北条氏攻めを開始した。翌月、五奉行注釈1-1の筆頭である浅野長吉(後の長政)は、他の武将とともに下総国の北条氏の各拠点を攻め、地域の有力寺院に本領安堵のための朱印状を与えた。葛西三十三郷の総鎮守で10石の朱印が与えられた香取宮(現葛西神社)には、朱印状を取り次いだ長吉が発した書状が残っている。7月5日小田原城は開城し、100 年に及んで関東を統治した北条氏は滅亡した。
 小田原城に入った豊臣秀吉は、論功行賞として徳川家康に安房・下野・常陸国の一部を除く北条氏の旧領240万石余を与え、8月1日家康は江戸城に入城した。当時の江戸城の前面には日比谷入江が入り込み、干満によって干潟が現れる広大な湿地帯であった。
 徳川家康は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで全国を統一し、慶長8(1603)年に征夷大将軍になると、本格的に江戸市街地の整備を推進する。このときの普請では、江戸湾に半島状に突き出た前島注釈1-2や、駿河台の台地を崩して日比谷の入江や呉服橋方面の低地が埋め立てられた。明暦3(1657)年の明暦の大火後は、新たな市街地として隅田川東岸に位置する葛西領沿岸部の開発が着手された。

絹本着色東照大権現(徳川家康)像一幅(葛飾区指定有形文化財)
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浅野長吉添状1点(葛飾区指定有形文化財)(天正18〔1590〕年4月29日)

飯塚・猿が俣・小合村・金町・柴又村について、軍勢による略奪や放火を禁止する文書。
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注釈1-1:豊臣政権下の職名。五大老の下で重要な職務を行った。浅野長吉・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の5人を指す。
注釈1-2:江戸前島・江戸郷内前島とも呼ばれた。現在の東京駅から有楽町駅辺りにあった砂州。