葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾の名所と行楽地 :柴又帝釈天

 柴又帝釈天の名で知られる日蓮宗経栄山題経寺は、古くから草庵のようなものがあったと伝えられているが、寛永6(1629)年に下総中山法華経寺(千葉県市川市)第19世禅那院によって創建された。
 帝釈天が流行寺となる契機は、安永8(1779)年の板本尊の発見である。本堂改築の際に梁の上から長い間行方不明であった宗祖日蓮が自ら刻んだと伝えられる帝釈天像の版木である板本尊が発見された。この日が庚申であったため、以後60日毎に巡ってくる庚申の日が縁日となった。
 この時期、関東では飢饉が継続しており、天明3(1783)年の信州浅間山噴火や、天明6(1786)年の利根川の水害などで、江戸と周辺農村は疲弊していた。題経寺第9世住職の日敬 は、板本尊を背負って江戸市中に出掛け御利益を授けた。これが当時盛んであった庚申信仰と結び付き、縁日は大いににぎわった。
 なお浅間山の噴火から11日後、柴又村の人々は江戸川に流れ着いた人馬を弔い、題経寺の墓地に供養碑を建てた。碑文には、「南無妙法蓮華経 川流溺死之老若男女 一切変死之魚畜等供養塚」と刻まれている。柴又村から浅間山を望むことはできないが、この建碑には、たびたび災害に見舞われてきた柴又村の復興に尽力した名主や村役人の災害への想いがあられている。
 19世紀前半、十方庵敬順は、8回にわたり葛西領を訪れ、通過した様子を『遊歴雑記』に記している。1回目は文化9(1812)年で浄光寺(木下川薬師)を訪れている。2回目は文化 12(1815)年で1日目が渋江村の西光寺→客人大権現→立石明神→題経寺で江戸川対岸の下矢切へ泊り、翌日に金町村の香取大明神→光増寺→半田稲荷を周遊 し、 曳舟で江戸に帰った。その後の金町金蓮院、再度浄光寺、青戸茂左衛門家に伝わる青砥左衛門藤綱が用いたといわれる山葵おろしなどを見にきている。文政12(1829)年には金町の光増寺を訪れ、新宿の川端の風景を楽しんでいる。

帝釈天像御尊影
戻る時は右上の×をクリックしてください

「絵本江戸土産」にみる帝釈天
戻る時は右上の×をクリックしてください

浅間山噴火川流溺死者供養碑1墓(葛飾区指定有形文化財)
戻る時は右上の×をクリックしてください