葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾の村 :旧家の歴史と伝承

 旧家といわれる家々の出自をたどると、中世末期の戦乱の時期を経て、近世社会が成立する過程で、各地から移動した人々の姿がみえる。中世の千葉氏や葛西氏、豊臣秀吉に敗れた北条氏の家臣の流れをくむものなど、その出自は実に多様である。主家の没落で転住を余儀なくされ、移住して農民となり、村の草切り(開発主)となった事例も多い。こうした中から江戸時代に名主を務めた家々が生まれてくる。『新編武蔵風土記稿』には、旧家として青戸村の山崎・中島・清水氏、飯塚村の関口氏、立石村の磯部氏、上千葉村の吉田氏などの記載がある。
 現在の水元地域に当たる村々には、開発主がわかる史料が多い。当時この一帯は、利根川が流れ、荒地も多かった。
 飯塚村の関口氏は、今川氏の系譜をもち、葛飾区内に残る最も古いの元和8(1622)年の検地帳に「隼人」と記載された家である。
 上小合村の細谷氏は、永禄4(1561)年に小合郷に転住し、開発主となった系譜を持つ。九州大友家の一族の子孫の系譜をもつ坂本氏は、天正19(1591)年に猿ヶ又村を開墾し名主を務めたという。江戸中期に作成された「慶安元年子ノ御検地以来」には周辺の村々から移住して、猿ヶ又村の開発に関わった家々の出自が明記されている。
 また、金町松戸関所の番人を務めた山田・足立氏は、尾張名古屋藩徳川義直に仕え、鵜飼を行う鵜匠役を務めていた。寛永21(1644)年3代将軍徳川家光の鵜匠役として江戸に移住し、貞享2(1685)年に関所番に任じられた家である。この他、堀切には開発主である六人衆の伝承がある。

大友氏感状(坂本家文書〔葛飾区登録有形文化財〕)

天正8(1580)年に坂本家5代目の備中入道鎮次が大友氏から贈られたという3通の感謝状の1つ。左端に大友義統の花押が見える。
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慶安元(1648)年子ノ御検地以来(部分)(坂本家文書〔葛飾区登録有形文化財〕)

西葛西領大畑村、谷古田領草加村、淵江領花又村などの村名が見える。
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