葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代葛飾の人々の暮らし :『万葉集』にみえる葛飾

 古代の葛飾の景観について言及したものに、『万葉集』にある真間の手児奈伝説を詠んだ歌群があげられる。真間の手児奈伝説とは、葛飾の地に住んでいた美しい1人の女性が多くの男性に求婚されたことに対して、自分の心はいくつにも分けることができるが、体は1つしかないので分けることができないと思い悩み、真間の入江に投身したという話である。手児奈伝説を題材にした万葉歌は、詠み人知らずの東歌から山部赤人・高橋虫麻呂といった万葉歌人のものまであるという点が特徴である。
 まず、山部赤人の歌であるが、彼は真間の手児奈伝説について長歌1首と短歌2首を詠んでいる。赤人の歌で注目されるのは短歌の、「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ」に描かれる「入江」である。この「入江」に「玉藻」がうちなびき、それを手児奈は刈っていたという様子が描かれていることから、「入江」は人が入れるほど浅く、藻が生育する環境にあるので河口に近い浅瀬であった可能性がある。地質学からみた古代の地形復元によると、現在の市川市真間の南側には砂州が広がっており、東京湾の最奥部であったことが指摘されている。これらのことから、江戸川の河口部が現在の市川付近まで広がっていたと考えられ、古代の葛飾は河口のすぐ近くに位置しており、河川の自然堤防と砂州、そしてその間に入り江が入り混じる低地であった可能性が高い。
 続いて、高橋虫麻呂の歌であるが、彼が真間の手児奈伝説について詠んだ歌は、長歌と短歌がそれぞれ1首ずつである。虫麻呂の歌で注目される表現は「湊」である。「湊」は河口、または港を指していると考えられているので、虫麻呂の歌からも真間の入り江周辺は江戸川の河口部であり、舟運の拠点であったことが想定できる。江戸川を間に挟んだ現在の市川市と江戸川区、そして葛飾区付近は水上交通と陸上交通の結節点であったことが指摘されており、下総国府を背景に海上交通と河川交通、陸上交通を相互に結ぶ重要な場所であったとみられる。
 この他に、真間の手児奈伝説に関する万葉歌として、下総国の相聞往来歌注釈1-1とされる短歌が3首と東歌注釈1-2が1首ある。東歌には、「葛飾の真間の浦廻を漕ぐ舟の舟 人騒ぐ波立つらしも」とあり、真間の地が入り江の湾曲した浦辺にあることを示している。「浦廻」については、海岸の湾曲部を指すと考えられることから潟湖注釈2-1のような場所を想定する考え方もある。相聞往来歌の中にも「おすひ」という表現があり、これは磯辺の方言であるという考え方が有力であることから、古代の葛飾付近は、海岸線に近く、潟湖が広がる低湿な地域であったとみられる。また、これらの歌からは浦、砂州や潟湖を利用した舟運が活発であったことも読み取ることができる。
 また、下総国の相聞往来歌に含まれている、「にほ鳥の葛飾早稲をにへすともそのかなしきを外に立てめやも」という歌がある。まず、「にほ鳥」という言葉は「潜く」などの枕詞注釈2-2であるが、これは「にほ鳥」がカイツブリを指しており、よく潜るカイツブリの性質と、潜るという意味の「潜く」と「葛飾」の音をかけた和歌であると考えられている。カイツブリが生息するのは主に流れの緩やかな河川や湖沼、海岸沿いの浅瀬が中心であり、古代の葛飾の景観をうかがうことができる。さらに、「早稲」の栽培が行われていたと推測できることから、早く成熟し、収穫できるイネの品種を栽培することで、台風などの水害を避けることがこの地域での農耕の基本であったとみられる。古代の葛飾区域が水害を受けやすい低湿な地域であったことを間接的に示している。

『紀州本 万葉集 』(巻三 山部赤人の歌)

山部赤人:生没年未詳。奈良時代前半に宮廷歌人として活躍。行幸に従事した際に作られた歌が多く、対句の技巧に優れ、叙景歌を確立したとされる。
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『江戸名所図会』「真間弘法寺」(天保7〔1836〕年)

江戸時代の真間の入江付近を描いたもの。絵図の下に流れる小川の周辺がかつての真間の入江であったとみられる。
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『紀州本 万葉集』(巻十四 相聞往来歌)
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『紀州本 万葉集』(巻十四 東歌)
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注釈1-1:相聞歌ともいう。男女・親子・兄弟・友人などの間の、恋慕あるいは親愛の情を歌ったもの。大部分は男女の恋愛の歌で構成される。
注釈1-2:遠江・信濃以東の東国地方の人々の歌で、東国の方言で詠まれている。
注釈2-1:砂州などによって海の一部が外海から隔てられて成立した湖沼。ラグーンとも言う。
注釈2-2:ある言葉を和歌に詠みこむためにその言葉の前におく修飾的な語句。