子ども広報「かつしか時間探検隊!昭和の世界へようこそ」(広報かつしか令和7年10月15日号掲載)
\ 私たちが取材しました! /
郷土と天文の博物館を取材しました
郷土と天文の博物館には、昭和30年代の民家と工場を再現したコーナーがあります。
今回は農村から都市へと発展した葛飾の景観や土地の使い方の移り変わりなどを写真や地図を使って学び、展示コーナーでは実際に昭和の暮らしを体験しました。


昔の葛飾区は

昔の葛飾区は、農村地域で現在と比べると家の数も少なかったです。人口が増えるにつれて田畑が住宅地に変わり、団地が誕生し、昭和40年頃には人口がすでに45万人に達していました。また、人々の日々の暮らしを支える商店も増えました。
昭和の衣食住
衣
-
昭和初期は、普段着として着物を着ている人が多かった。
食
- 昭和30年代までは、ちゃぶ台を大人数で囲んでご飯を食べていた。
- お互いの顔が見えやすいからコミュニケーションを育む場になった。
住
- 木造住宅が多かった。
- 葛飾区は水害が多かったので、家屋の入り口を高くするなどの工夫があった。
乗り物

昭和30年代の区内の自動車は、三輪の自動車が多く、主に荷物の配達などに使われていました。
※撮影のため特別にドアを開けています。

おもちゃ
山本亭を取材しました
山本亭は、山本工場(カメラ部品製造)の創業者である山本栄之助氏の自宅でした。伝統的な和風建築と洋風建築が一体となった立派で豪華な造りの建物です。今回は、普段は入れない防空壕や土蔵も見学しました。

土を厚く塗り固めた蔵で、火災に強く、財産などの大事なものを保管していました。この土蔵は関東大震災でも壊れずに残ったものです。

授業やテレビでよく見る防空壕とは違って、シャワーや換気扇も付いている地下室になっています。この中で生活することができました。江戸川の水位と同じ高さにあるため、室温が低いです。
寅さん記念館を取材しました
柴又で撮影された映画シリーズ『男はつらいよ』で実際に使われた小道具や、昭和30年代の帝釈天参道のまちなみを再現した展示などがあります。
映画の中で登場する昭和の柴又はどんな暮らしだったのかを見学し、館長の諏訪宏(すわひろし)さんにインタビューしました。
連絡手段
- 駅にある伝言板で用件を伝えていた。
- 家の電話はダイヤル式の黒電話で、公衆電話は赤電話だった。

情報収集手段
- 電車の時刻を調べるために、時刻表を持ち歩いていた。
- 次の映画のお知らせは映像ではなく、ポスターで知らせていた。

館長の諏訪さんにインタビュー
Q.昭和の良かったところは?
A.昭和の良さは、みんなで一緒に楽しむことだと思います。ヒット曲などが町中に流れ、みんなで共有していましたし、人気のテレビ番組の時間になるとみんなで集まって見ていました。仲間意識があり、一体感があった時代だなと思います。
Q.昭和のときと変わっていないことはありますか?
お祭りや花火大会は変わらないなと思います。昔と変わりなく、人が集まって楽しんでいるところがいいですね。
Q. 昭和を表現するために寅さん記念館の展示方法でこだわっていることはありますか?
寅さんがいた昭和の時代をそのまま感じられるようにしています。展示している家具や家電、床も昭和の時代と似た風合いにするために、優しい色にしています。

区民の皆さんに伝えたい昭和の葛飾のいいところ
- スマホやゲームがないけど、みんなで学校とかで遊んでいた。
- 家の周りのドブ板は歩くとガタガタ音が鳴って、防犯対策になった。
- 新しい家が完成すると家族や近所の人など、みんなでお祝いをしていた。
- 家で使う電気は照明とラジオくらいだったから今と比べると電気代がかからなかった。
- 駅から個人の荷物を鉄道車両を使って送ることができた。
- ブラシ工場の看板がブラシの形をしていて、看板が大きかったので、目立っていた。
- 田んぼがあって自然も多かったし、夏は扇風機だけで過ごせた。
取材を終えて
子ども広報員の皆さんがグループに分かれて、取材した内容を記事にまとめました。


\完成した記事/


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