葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■川と船 :葛西用水・上下之割用水など

 子どもたちが水泳や魚捕りなどをする場としては大きな川よりも葛西用水や上下之割用水などの農業用水路の方が適していた。昭和30年代までは、田植の時期が近づいて用水路に水が流れ出すと水生植物であるカミソリモクが成長する。そこにはたくさんのクチボソやメダカが群れをなして潜んでいた。 
 葛西用水が亀有駅近くの常磐線のガード付近にさしかかった所にサイカチド圦と呼ばれる水門があった。この付近はウナギが多く、夏から秋にかけて雨が降った後に仕掛けを置いてウナギを捕る人が多かった。秋から冬にかけては押し網と呼ばれる網を使って小魚を捕り、素焼きにして保存したり甘露煮にした。
 大きな農家の中には家の周りに堀のある家があった。こうした堀をカマエボリとかメーボリ(前堀)と呼んでいた。このような小さな堀でもカイボリをすることがあった。また、冬から春にかけて水がない時に農機具のマンノウで水底を掘ると、たくさんのドジョウが捕れた。
 昭和25(1950) 年頃までは捕った魚は各家庭で食べていた。その後、川や用水路の魚は食べることは少なくなったが、昭和40年代初期まではどこでも魚捕りが盛んであった。昭和50年代になると池も少なくなり、田んぼがなくなると農業用水は使われなくなり岸辺に雑草が生い茂るようになってきた。また用水路には生活排水ばかり流れ込むようになって急速に汚染が目立つようになり、魚がいなくなった。農業用水として使っていた地域でも水質が悪化し、昭和40年代に入ると収穫した米が薄黒くなったり、指先でつぶすと粉のようになってしまう現象が出てくるようになった。昭和50年代に蓋を掛けられる水路が増加したが、多くの人たちは汚れた水路が見えなくなることを喜んだものだという。

新堀川(昭和12〔1937〕年、現東四つ木コミュニティ通り付近)
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高砂〜細田付近(昭和12〔1937〕年)

魚を捕る筌を積んだ船が通る。
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上下之割用水と中川を結ぶ水門(昭和初期の様子、現新宿1丁目)

魚とりの筌を積んだ船が描かれている。飯塚亀雄が昭和初期の新宿を回想して描いたもの
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桶を水路で洗う(昭和12〔1937〕年、奥戸本町〔現奥戸〕)

農業用水は農具を洗ったり出荷する野菜を洗う場でもあった。
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用水路のある風景(昭和35〔1960〕年頃の様子、高砂町〔現高砂〕)

小島健二朗画。小島栄子提供。
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