葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■川と船 :中川

 昭和20年代まで中川には下肥運搬船が多く通っていて、江戸川と同じようにあちこちに船着き場が設けられていた。奥戸新町には奥戸橋のやや上流に細田町へと通じる細長い入り江があって、下肥運搬船の係留所のようになっていた。ここには宿舟と呼ばれる船が停泊していて、船頭達が飲食できるようになっていた。
 中川でも川砂を採取する人がいて、本田立石町の南蔵院の近くに船を停泊させていた。現在の立石かんすけ児童公園の所が砂揚場になっていた。
 昭和50年代まで中川流域には染色業をする工場が多く、特に本田川端町や本田原町に多かった。こうした業者達が染物の糊を落とす作業をするための台船と呼ばれる作業場が立石から上平井町にかけてあった。

中川で行われていた漁(昭和30年代、本田川端町〔現東立石〕)
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