葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■高度成長期の産業と労働力 :出稼ぎと集団就職

 日本の高度成長を支えた労働力は、出稼ぎ注釈1や集団就職によって農村部から都市部へ働きに来た人たちだった。
 昭和30年代は、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催に向けた都市整備などの大規模工事が相次ぎ、建設業に従事する多くの出稼ぎ者がいた。高度成長期の葛飾区では、道路整備をはじめ学校や保育施設などの建設が進められており、 出稼ぎ者がそれらの建設に従事したと推測される。
 集団就職とは、行政の支援のもと、都市部の中小・零細企業が主に中学校を卒業する同じ地方の若者に対してまとまった求人を行い、これに応じた若者が集団で就職することであり注釈2、当時、若者たちは日本の産業を支える重要な労働力として「金の卵」と呼ばれた。昭和35(1960)年4月の『葛飾区のお知らせ』第95号(現『広報かつしか』)の記事「就職列車がやって来た」では、地方から墨田区と葛飾区に就職する約2400人の集団就職者がやって来たこと、このうち約720人が葛飾区へ就職することが報じられている。この記事には、第2次世界大戦の影響により中学校の卒業生の数が減少した状況注釈3を反映して、集団就職者は「好景気やら、卒業生の大幅減少やらで引張りダコ」であると記されている。集団就職者は、葛飾区の高度成長期を支えた貴重な労働力であった。




注釈1:一般的に、農作業を行わない農閑期に仕事を求めて他地域に出て働くことをいう。
注釈2:昭和30年代に集団就職が行われた背景には、都市部の中小・零細企業が労働条件の良い大企業との競合により新卒者を雇用することが難しく、また、地方の新卒者は都市部に比べて就職の機会が制限されていた状況があった。
注釈3:昭和 34(1959)年の中学校卒業者が約197万人だったのに対して、昭和35(1960)年と昭和36(1961)年(昭和19〔1944〕年4月から昭和21〔1946〕年3月の間に生まれた)の中卒者はそれぞれ約177万人、約140万人であった。これは、第1次ベビーブーム世代が中学校を卒業する昭和38(1963)〜昭和40(1965)年の240万人前後と比べると約70万〜100万人も少なかった。このような状況になったのは、第2次世界大戦末期に多くの男性が兵役に就いていた影響とされている。