葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第3節 章間コラム

■地名の由来② :

【亀有】
中世には「亀無」とある。「田数注文」は「亀無」、「所領役帳」は「亀梨」とある。地誌類には、梨の実をありの実と言い換えることもあり、「全クナシ」という言葉を忌み嫌ったためとしている。
【青戸】
中世からの地名。「戸」は「津」(港)の意味があり、川と海の接点である水上交通の要衝の地を示す。「田数注文」、「所領役帳」ともに名がみえる。「新編武蔵」は「相傳フ徃昔ハ青砥左衛門藤綱ノ居住セシ地ナルヲモテ村名トシ。後年青戸ノ文字ニ改メシト云。サレド其改メシモ古キコトニヤ」とある。藤綱の名は「吾妻鏡」等の歴史書にはなく、後世に作られた人物で実在しないとされている。古文書類など行政上は一貫して「戸」が使われた。地元では「おおと」とも言った。
【小菅】
近世からの地名。利根川の本流であった古隅田川に面する。湿地に生えるヨシやカヤに由来するという説もある。
【堀切】
中世からの地名。地誌類には、村の西寄に古道と唱える場所があり、古の奥州海道と伝えている。「新編武蔵」の小名に「宿」、「皇国地誌」の字に「宿・御城」の地名がある。
【お花茶屋】
昭和 39(1964)年住居表示により誕生した地名。江戸時代中期、8代将軍吉宗が鷹狩りの際、腹痛を起こして茶屋の娘お花の介抱を受けたという伝説にちなむ。地名としては、嘉永7(1854)年「堀きりの草花」に「お花茶や」が登場することから、すでに使われていたことがわかる。
【白鳥】
昭和41(1966)年住居表示により誕生した地名。「皇国地誌」青戸村の字に白鳥沼がある。大正初期まで白鳥沼と称する池沼があり、白鳥などが飛来したことにちなむという
【宝町】
昭和 36(1961)年住居表示により誕生した地名。母体は近世の宝木塚村、昭和7(1932)年以降の本田宝木塚町のほとんどが宝町となる。
【立石】
中世からの地名。「新編武蔵」は、村の鎮守の熊野社の神体である石剣を村名の由来と明記している。また、この領域から近世の村々が成立したことを、「古ハ地域モ廣クシテ。今ノ川端。中原。梅田。四ツ木。篠原。原。淡野須等ノ村々。當村ノ内ナリ」と記している。現在、立石は東京都指定史跡になっている。
【四つ木】
近世の新田村。古くは「四ツ木」と書く。「皇国地誌」は、「本村往時ハ立石村ノ内ニテ小名ヲ四ツ木ト唱ヒシヲ分村ノ時直ニ取テ村名ニ加フ、元禄国図郷帳ニ四ツ木新田村ト記ス」とある。地名は「新編武蔵」「葛西志」とも、4本の大木があったことによる。また「葛西志」は別説として、源頼朝が奥州征伐の際、この地で時刻を聞いた時「四ツ過」と答えたのが「よつぎ」と誤って称し四ツ木と書いたとしている。西光寺の聖徳太子立像の頭部墨書名に、「暦応四巳(1341年)七月五日 四木善佑」の名があり、地名としては中世からあった。
【奥戸】
中世からの地名で、青戸同様かつて港があったことを示す。関東管領上杉憲実の家臣で当時上木毛河郷を知行していた藤原家定は、応永33(1462)年鎌倉鶴岡八幡宮の12坊のひとつである相承院に寄進した文書で、「奥津」を名乗っている。
【新小岩】
昭和40(1965)年の住居表示により誕生した地名。小岩は、「養老戸籍」の「甲和」の転化といわれる。


地名の由来③