葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■高度成長期の街並みと学校・道路の整備 :継続する人口増加と宅地化

 復興期に増加した葛飾区の人口は、高度成長期も引き続き増加した。昭和30(1955)年に29万4133人であった区の人口は、昭和45(1970)年には約1.6倍の46万2954人となった。これは、区内に居住して昼間は区外へ働きに出る人(昼間流出人口)が増加したためであった。この変化を推し進めたのは、日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)注釈1による大規模な集合住宅の建設であった。昭和31(1956)年11月、区内初の公団住宅が青砥駅に近い青戸に建設された後、東金町、金町、亀有、東新小岩といった国鉄(現JR)の駅周辺に次々と建てられていった。
 公団住宅の建設とともに都営住宅や民間の住宅、工場や商店が増加し、葛飾区内の農地(田畑)は次第に宅地(商業地、工業地、住宅地など)へと姿を変えていった。区内には、東京都の都市計画において一般住宅などの建築が制限される「緑地地域」注釈2があったが、昭和40(1965)年に開園した都立水元公園を除いて規制は効果を上げず、宅地化が進んでいった。農地は水元や新宿 、奥戸など一部地域に残るだけとなり、第2次世界大戦後から20年余りで区内の風景は大きく変化した。また、金町駅北口の工場跡地に昭和 43(1968)年に建設された日本住宅公団金町駅前団地は、地上15階の棟を持つ高層建築であり、敷地内には東光ストア(現東急ストア)が開店するなど新しい街並みが形成された。

葛飾区の人口(昭和20〔1945〕〜昭和50〔1975〕年)
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葛飾区の昼間流出人口(昭和30〔1955〕〜昭和50〔1975〕年)
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葛飾区の宅地・田畑の面積(昭和30〔1955〕〜昭和50〔1975〕年)

宅地は「商業地」、「工業地」、「住宅地」、「その他」の合計。
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日本住宅公団金町駅前団地(昭和40年代)
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注釈1:昭和 30(1955)年7月に設立。公団の目的は、大都市などの住宅が不足する地域に耐火構造の集合住宅を大量に建設すること、大規模な宅地開発事業を実施して計画的な市街地を作ることであった。
注釈2:都市の中心部から外側へ市街地が膨張していくことを防ぐため、都市周辺部などで農地や緑地を残すように指定を受けた地域のこと。しかし、緑地地域でも無秩序な市街地化が進んだため、昭和44(1969)年に廃止された。