葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■終戦・占領と区民生活 :戦後教育の出発

 「五大改革指令」注釈1で指示された教育制度の改革は、昭和22(1947)年に施行された「学校教育法」や「教育基本法」に基づいて行われた。義務教育を小学校6年・中学校3年とするいわゆる「6・3制」の実施に伴い、新制中学校注釈2が設置されることとなった。
 葛飾区では、昭和22(1947)年5月に12校の中学校が開校した。当初の中学校のほとんどは独立した校舎がなく、小学校に間借りしての開校であった。区内の全中学校が独立した校舎となったのは、昭和26(1951)年度であった。
 小学校では、葛飾区への移住者の増加に伴う児童数の増加や中学校に校舎を提供したことによって教室が不足した。このため、大半の学年では午前と午後に分けて二部授業を実施し、必要に応じて分校を設けた。二部授業が完全に解消したのは、小学校の数が46校(うち分校1校)となる昭和39(1964)年からであった。
 学校給食が本格的に始まったのは、戦後になってからであった。葛飾区の小学校では、昭和25(1950)年9月からパンと脱脂粉乳を中心とする「完全給食」注釈1-2へと徐々に切り替わっていった。

復興期に開校した新制中学校
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体育館を仕切った教室(昭和21〔1946〕年)

子どもが増加したため、体育館を仕切って教室とした。
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奥戸小学校に併設された葛飾区立第五中学校(現奥戸中学校)(昭和22〔1947〕年)

左側の校舎が第五中学校。
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学校給食の様子(昭和30年代)

コッペパンや脱脂粉乳に加えて、次第に副食が添えられるようになった。
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注釈1:昭和20(1945)年10月11日、首相の幣原喜重郎がマッカーサーを訪問した際、マッカーサーは幣原に口頭で「大日本帝国憲法」の改正の他、5点の指示を与えた。具体的には、(1)婦人参政権の付与、(2)労働組合の結成奨励、(3)教育制度の改革、(4)秘密警察などの廃止、(5)経済機構の民主化であった。
注釈2:戦前の旧制中学校は、「学校教育法」が施行された後、現在の高等学校の基礎となった。
注釈1-2:『葛飾区政ニュース』(現『広報かつしか』)では、政府が配給する脱脂粉乳、砂糖、油などの物資を利用し、1食当たり600カロリー、たんぱく質25g程度以上を確保した給食であると説明している(「完全給食準備着々進む」『葛飾区政ニュース』第39号、葛飾区役所、昭和25〔1950〕年8月)。