葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■終戦・占領と区民生活 :復興期の食糧事情

 中でも、海外からの軍人の復員、民間人の引き揚げによる人口増加や米の不作などのため、戦後直後の食糧不足は深刻であった。大多数の国民の関心は、何はさておき「食べること」に向けられており、「たけのこ生活」注釈1を送る者や野荒し注釈2にはしる者が現れた。
 不足する食糧を確保するため、昭和21(1946)年2月に「食糧緊急措置令」が施行された。これによって、政府は米や麦などを供出注釈3しない農家から強制的に買い上げることが可能になり、強権的な供出が行われた。しかし、政府は割り当てた供出量を確保することができなかったため、都市部における食糧配給の遅配・欠配が深刻な問題となった。食糧不足への危機感から、同年5月19日に宮城(現皇居)前で「飯米獲得人民大会」(食糧メーデー)が開かれ、その前後には江戸川区、板橋区や世田谷区などで「米よこせ大会」が開かれた。葛飾区は東京区部でも数少ない米の移出(区外出荷)地域であったことから、農作物を求める人々が訪れる状況が見られた。深刻な食糧不足に対して、昭和21(1946)年以降にGHQが所有する米や小麦粉が放出され、また小麦や小麦粉などがアメリカから輸入された。
 食糧援助によって危機的な状況は乗り越えたものの、依然として食糧の確保は問題であった。昭和23(1948)年に葛飾区は、GHQの「好意」によって食糧事情は良くなっているものの、「狭い日本は方寸の土地も利用して食糧の増産に心がけなければなりません」として希望者を募り、家庭菜園向けに種子用馬鈴薯の配布などを行っている注釈1-2。また、昭和23(1948)年と翌年の夏に、生活に困っている区民に配給する「救護食糧」が余っているとして、これを一般に配給することを要求する「救護米よこせ運動」が起こった。集団で区役所や各出張所に押し寄せた区民に対して、区は食糧事情が改善されていること、および救護食糧の目的について説明し、その場を収めた。
 また、葛飾区内の農家は、厳しい状況の中で農作物を供出し続けた。昭和23(1948)年は、前年9月に来襲したカスリーン台風の影響により区内で稲の病虫害が発生したため、東京都から割り当てられた米の供出量を確保することが困難になった。都は割当量を少なくしたが、それでも供出を完遂することは難しい見通しであった。しかし、結果的には割当量を上回る超過供出を行い、続く昭和24(1949)年から昭和26(1951)年度も供出を完遂した。

家庭用みそ購入通帳(昭和24〔1949〕年発行)
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救護食糧の配給を要求する葛飾区民の様子を伝えた『葛飾区政ニュース』(現『広報かつしか』)第20号(昭和24〔1949〕年8月)
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注釈1:終戦直後は、激しいインフレーションと食糧の流通を政府が統制していたことから、都市部に住む人々は現金で食糧を購入することが難しく、やむを得ず衣類や貴金属など現物と引き換えに食糧を調達した。この様子が、たけのこの皮を1枚1枚剥いでいくようであったことから「たけのこ生活」と例えられた。
注釈2:田畑の作物を荒らしたり、盗んだりすること。ある葛飾区民の記録によれば、昭和20(1945)年10月、自分の家の畑から甘藷が何度も盗まれるので父親と共に畑に囲いを設け、甘藷を盗まれる前に早く掘るなどしたという(吉川延太郎『ゆくとし五十年』葛飾ロータリークラブ、昭和 47〔1972〕年)。
注釈3:自分の家で消費する以外の主な農産物について、政府が農家から強制的に買い上げる供出制度は、昭和17(1942)年に施行された「食糧管理法」により、戦争を続けるために 運用されていた。戦後は制度に変更を加えながら、食糧事情が安定する昭和30(1955)年まで続いた。
注釈1-2:「菜園登録者に種子用馬鈴薯配布」『葛飾区政ニュース』第2号、葛飾区役所、昭和23(1948)年。