葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と水⑤カスリーン台風と水塚 :経過と被害概要

 昭和22(1947)年9月11日午前3時頃にマリアナ西方で熱帯低気圧より変化した台風は、15日の午前6時頃、静岡県浜松の南方170㎞の沖合いに到達、正午頃、御前崎南方100㎞、午後6時頃、新島付近を通過、午後8時頃、房総半島南部館山付近を過ぎ、16日の午前3時に銚子南方100㎞の海上に去った。
 台風名は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下にあったため、アメリカの命名法によりアルファベットの11番目で始まる女性名カスリーン(Kathleen)がつけられた。カスリーン台風は、既に停滞していた前線を刺激したことと、進行速度の遅さから広範囲に多量の降雨をもたらした。『理科年表』によると、被害は、死者1077人、行方不明者853人、負傷者1674人、住家損壊9296棟、浸水38万4743棟に及んだ。
 関東では、利根川と渡良瀬川の洪水が重なり、9月16日午前11時30分頃、利根川右岸東村(現埼玉県加須市)の堤防が決壊した。荒川も15日夜に吹上(現埼玉県熊谷市)付近で決壊し、元荒川沿いに流下し、17日夜には、利根川の洪水と合流して、中川低地を南下していった。18日午後3時には、洪水は大場川を越えて葛飾区の小合溜井(現水元小合溜)に流入し、桜堤に至った。

利根川氾濫による被害集計表
戻る時は右上の×をクリックしてください

昭和22(1947)年洪水氾濫実績
戻る時は右上の×をクリックしてください