葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾区の誕生 :葛飾区の誕生

 それぞれの区の領域は町村間の生活上の結び付きなどを考慮して東京市で考案され、若干の修正を経た後、決められた。葛飾区に編入されたのは水元村・金町・新宿町・亀青村・奥戸町・南綾瀬町・本田町の7カ町村である。この7カ町村は古くから灌漑用水を共同で利用してきた地域であり、1つの区を編成することが適当と判断された。
 「葛飾区」という名称はこの地域を含む万葉の時代からの地名を生かしていこうと提案されたものであった。対案として中川区という名称も候補になっていた。合併当時の人口は8万9919人である。
 また、葛飾区役所の場所は江戸時代以来の宿場町でこの地域の中心地として発展してきた新宿町と合併当時発展が著しかった本田町が候補になり、結局、本田町に決定した。当面、本田町の旧庁舎(現立石1丁目)を区役所として使うこととなった。
 昭和7(1932)年12月に旧奥戸町町会議員の鈴木八左エ衛門を議長として第1回葛飾区議会が本田尋常高等小学校体育館を会場として開かれた。議員の数は36名。新生葛飾区はこうして発足した。
 昭和12(1937)年には待望久しかった新庁舎が落成した。庁舎の場所は、旧本田町の通称青砥耕地と呼ばれる葭原(現立石6丁目)で、夏になると蛍が飛び交うような田園の中にあった。この庁舎は昭和20(1945)年2月にアメリカ軍の空襲により焼失するまで使われた。

本田町役場

現在の葛飾区立立石図書館(立石1丁目)の地に建てられていた。
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昭和12(1937)年に落成した葛飾区役所新庁舎

現在の葛飾区文化会館(かつしかシンフォニーヒルズ)(立石6丁目)が建っている場所に建設された。
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