葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と下肥 :下肥利用の変遷

 葛飾区域は都市近郊にあり、輸送に有利な河川環境に恵まれた立地を生かし、都市部から排出される大量の人糞尿を肥料として農業を行ってきた。この人糞尿は「下肥」といわれ東京近郊農村において広く使用されてきたが、低湿地であり肥料を得るための資源が少なかった葛飾区では特に大量に消費されたのである。
 そもそも、江戸城を中心として東京の東側には古くから多くの河川が存在し、それを利用した船による運搬方法が取られてきた。葛飾区域には下肥を運ぶための船を所持し、下肥をくみ取って農家に販売する「下肥卸業者」が多く存在し、これらの業者が地域の下肥の農業利用の中核を担っていたのである。
 しかし、明治時代に入ると東京市に人口が集中し、農村部で受け入れられる下肥の量を超えてしまう状況が生じるようになった。そのため、明治時代後期以降の都市部では、あふれかえる屎 尿をいかに合理的かつ衛生的に適切な処理をするかが課題となった。