葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第1節 南葛飾郡の時代

■大東京誕生の機運 :東京市と周辺郡部合併の機運

 大正12(1923)年に未曽有の被害をもたらした関東大震災によって、東京市(現千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区にわたる地域)の被災者が周辺の町村に移住する傾向が強くなり、東京市から隣接町村への人口の移住は急激なものとなった。そのため東京市に隣接する5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)は東京市と一体的な発展を見せていくようになった。またこの時代には東京市中心部から郊外への鉄道の整備が進み、郊外に住んでいても通勤することが容易になったことも市部から郡部への人口の流出に拍車を掛けた。
 南葛飾郡でもこうした傾向が表れ、昭和5(1930)年の人口を大正9(1920)年のものと比較すると、最も人口増が著しい南葛飾郡本田町では約4.7倍に達していた。こうした地域では農村から都市へと景観が変化していき、衣食住に関わる文化も大きく変化した。周辺郡部と東京市の生活感覚は次第に一体感を持つようになった。このような状況を背景に次第に東京市と周辺郡部との合併の機運が高まりを見せるようになった。東京市では昭和6(1931)年8月に市役所に東京市臨時市域拡張部を設置して隣接町村合併に本格的に取り組むようになった。

亀青村役場
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