葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第1節 南葛飾郡の時代

■葛飾と水④ 河川と産業 :小宮家と江戸小紋

 東京は裃や着物の柄である小紋染めが盛んな地域であった。
 明治15(1882)年に現在の墨田区押上に生まれた小宮康助は、数え年13歳の時に小紋染めの名人であった浅野茂十郎に弟子入りし、小紋職人の道に入った。25歳の時に独立し、現在の台東区千束に工場を構えた。関西から伝わった「しごき染め」の技法をいち早く研究し、小紋染めの世界に新しい境地を拓いていった。
 大正12(1923)年の関東大震災により、被災した工場は移転を余儀なくされた。一時、多摩川に近い土地に住んだこともあったが多摩川の水では小紋の味わいある色が出ないと考え、いくつかの川の水質を調べた末に中川に近い南葛飾郡奥戸村字上平井(現西新小岩)に小紋の染工場を設けることにした。当時の上平井には、水田の泥水が流れ込む用水路が多かった。そうした水が利用しやすい上平井の環境が小紋染めに向いていると考えた。小宮康助は、昭和30(1955)年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。このときに康助の技術を他の小紋染めと区別するため「江戸小紋」いう名称が生まれた。
 小宮康助の長男康孝は大正14(1925)年に生まれ、上平井尋常小学校卒業後に父の下で小紋染めの修業を始めた。それまでの小紋染めの染料は変色しやすい化学染料であったが、変色しにくい化学染料を用いることでいつまでも色の変わりにくい江戸小紋が実現した。
 また、型紙の素材や製造法にもこだわり、型紙彫刻師の育成にも心血を注いだ。昭和53(1978)年に父に続いて親子2代の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 小宮康孝の長男康正は、27歳のころから長板中形の作家である清水幸太郎の教えを受け、長板中形の古型を現代の型紙彫刻師に復刻してもらい、浴衣染めをするプロジェクトに参加するなど意欲的な試みを重ね、小紋の分野でも父の指導を受けながら、連子という柄の傑作を多数世に送り出してきた。
 さらに小宮家の江戸小紋は康正の子息である康義と康平に受け継がれ、我が国の小紋染めの至宝として将来へと伝えられようとしている。

小宮康助

震災や水害などの苦難を克服し小紋染めの大衆化に力を尽くした。
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小宮康孝

小紋を取り巻く道具や材料などあらゆるものにこだわりを持ち、特に型紙を彫る職人達を大切にした。
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小宮康正染 連子
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小宮家の人達

小宮康孝を囲む。右から康正、康平、康義。
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