葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾の村 :武蔵国葛西領

 江戸時代初期に、それまで下総国に属していた葛飾区域は、武蔵国に属することになった。武蔵国では、鷹狩りや助郷注釈2の負担、また用水や普請など水利の利害を共にする村々のまとまりを「領」という。葛西領の北部に位置する葛飾区域は東葛西領上之割と西葛西領本田筋、南部の江戸川区域は東葛西領下之割、江東区域は西葛西領新田筋と称された。北は、古利根川右岸が葛飾郡二郷半領(埼玉県三郷市・吉川市)、左岸が埼玉郡八条領(埼玉県八潮市)と足立郡淵江領(足立区)である。
 19世紀前期の天保年間(1830-1844)、 昌平坂学問所地理局が幕府に上呈した官選地誌『新編武蔵風土記稿』には、「正保国絵図」注釈3の写が郡別に掲載されている。1650年代の葛西領内が書かれたこの図には、17世紀末期の「元禄国絵図」以降記載される新田村はまだ描かれていない。
 『新編武蔵風土記稿』の立石には「立石村ノ区域往昔ハ頗ル闊ク川端、中原、梅田、四ツ木、原、篠原、淡野須等ノ諸村ニ皆此村ヨリ分村セン」と記されている。

「正保年中改定図」葛飾郡部分(『新編武蔵風土記稿』)
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注釈2:宿駅には人馬が常備されていたが、それでは不足する場合、宿駅周辺の村々に対して幕府や諸藩が人馬を提供させた制度。
注釈3:江戸幕府が諸大名に命じて作らせた国ごとの絵図。作成されたが、現存するのは正保・元禄・天保図である。