葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■鎌倉時代の葛飾と葛西氏 :南北朝の動乱と葛西氏

 鎌倉時代末期になると、各地で反幕府勢力が蜂起する。後醍醐天皇による2度にわたる倒幕計画に対して、鎌倉幕府は大勢の軍勢を派遣して鎮圧を図り、元弘元(1331)年に天皇は山城国の笠置山に逃走する。この派遣された軍勢の中に葛西氏の名前がみえることから、この頃までは幕府側として活動していたとみられる。
 しかし、葛西氏は元弘3(1333)年に倒幕側の新田義貞の軍勢に加わり、分倍河原(東京都府中市)の戦いで幕府の軍勢を撃破し、鎌倉に攻め込んだ。そして、同年5月、北条高時らが鎌倉の東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡した。
 この義貞の軍勢に加わった葛西氏は、おそらく葛西地域にいた葛西氏であったと考えられるが、この後の葛西氏の動向は各地の一族が独自の動きをみせるため、正確に把握することができない。建武元(1334)年には、葛西氏が武蔵国の江戸氏などとともに、後醍醐天皇の建武新政府によって関東地方統治のために置かれた鎌倉将軍府に対して反乱を起こしている。しかし、一方で葛西氏の6代目当主とされる葛西清貞は、建武2(1335)年のものとみられる「後醍醐天皇宸筆事書案」に、奥州において清貞が後醍醐天皇より「無二の之忠」と賞されていることから、南朝方として活動していたことがわかる。葛西氏の当主は、清貞の頃に葛西清重以来の本拠地である葛西地域を退去し、陸奥国へ本拠を移したと考えられているが、その詳細な時期はわかっていない。清貞は「香取社造営次第」によると、元徳2(1330)年に雑掌として香取社(香取神宮)の遷宮に関わっていることから、この頃までは葛西地域を拠点に活動していたとみられる。少なくとも南北朝の動乱が葛西地域を拠点としていた葛西氏に大きな影響を与えていたことは確かであろう。
 建武2(1335)年には、北条高時の子である時 行が鎌倉幕府再興のため鎌倉へ攻め入る大規模な反乱を起こした(中先代の乱)。この反乱に対して、京都にいた足利尊氏は鎌倉に下り鎮圧するが、尊氏の軍勢の中で葛西氏の家臣である末永氏が軍功をあげ、尊氏のそばに召されたとある。尊氏の軍勢に従っていた葛西氏がいたことがわかる。
 この後、足利尊氏は建武政権に反旗をひるがえし、新田義貞を破って京都に入った。これに対して建武3(1336)年には、後醍醐天皇より尊氏追討を命じられた北畠顕家が、陸奥国より葛西氏ら5万騎を率いて上洛し、新田義貞・楠木正成らと合流して尊氏を京都から九州に追い落とした。この時の戦いで葛西江刺三郎左衛門という人物が戦死しているが、これは陸奥国に移った葛西氏の一族とみられる。一方、延元2(1337)年に北畠顕家の軍勢が再び陸奥国から京都に向かうが、これを追撃する関東地方の足利方の軍勢に、江戸氏などとともに葛西氏の名前があげられている。この葛西氏は陸奥国へ移った葛西氏の当主ではなく、下総国葛西地域に残っていた葛西氏であったと考えられる。南北朝時代には、葛西氏の当主は陸奥国に移っていたが、一部の葛西氏は葛飾区域に残って活動していたとみられる。しかし、康永4(1345)年の「香取社造営諸役注文」に小鮎・猿俣の地頭として葛西氏の名が見えるのを最後に、葛西の地での葛西氏の活動を史料から確認することはできない。
 葛西氏は、陸奥国へ移った後、日本海側へも展開している。円覚寺(青森県深浦町)にある永 正 3(1506)年の棟札に「葛西木庭袋伊予守頼清」とあり、葛西木庭袋氏の存在が確認できる。また16世紀前半の若狭国遠敷郡小浜(福井県小浜市)や、16世紀後半には豊後国を中心に領国を拡大した大友氏の家中にも「葛西」を名字とする一族の活動が確認できるなど、本宗家以外の葛西氏の足跡が各地に残されている。
 陸奥国に移った葛西氏は、東北地方にあって戦国大名として君臨したが、天正18(1590)年の豊臣秀吉の奥州仕置によって清重以来の名族葛西氏は滅亡してしまう。

『太平記』(巻十)

『太平記』は応安年間(1368〜1375)に成立したとされる、南北朝時代の動乱を描いた軍記物語。元弘3(1333)年の武蔵国分倍河原合戦で、葛西氏らが幕府を見限り、新田義貞に属して鎌倉を攻め落としたことが書かれている。
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「後醍醐天皇宸筆事書案(建武2〔1335〕年)」(白河結城家文書)
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円覚寺薬師堂棟札(永正3〔1506〕年)

「大旦那葛西木庭袋伊予守頼清」とあり、別の永正2(1505)年銘の棟札にも「伊予守頼清」と同一人物の名が記されている。これらの棟札は葛西の地名を冠する木庭袋葛西氏の津軽での活動を示す貴重な史料である。
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