第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)
第2節 中世の葛飾
■鎌倉時代の葛飾と葛西氏 :鎌倉幕府と葛西清重
葛西清重は父豊島清元とともに、文治5(1189)年の奥州藤原氏攻め注釈1に、武蔵・上野の軍勢を率いて参加している。奥州藤原氏攻めで功績をあげた清重は、奥州の北上川沿いに広大な所領を与えられ、伊沢家景とともに戦後処理のためにつくられた奥州総奉行に任命され、奥州藤原氏滅亡後の奥州の治安維持にあたった。
建久元(1190)年11月から12月にかけて、源頼朝の全国平定を内外に示す上洛が行われることになると、葛西清重は上洛の道中の宿の手配を任された。そして、頼朝に従って上洛した清重は、主要な御家人10人のうちの1人として右兵衛尉 の官職に任命された。この時に官職についた御家人は、大変な栄誉であるとされ、清重の他にも三浦義村・和田義盛・小山朝政など鎌倉幕府の重鎮たちが官職を与えられている。清重が幕府内で重きをなしていたとともに、頼朝からの信頼も厚い人物であったことがわかる。
その後も清重は、頼朝が寺院や神社へ参詣する際の護衛としてたびたび随行するなど、鎌倉幕府の御家人として頼朝の側近くで仕えた。
源頼朝の死後も葛西清重は幕府に忠節を尽くしている。武蔵国の有力な御家人であった畠山重忠が謀反の疑いで討伐された際には、先陣として名を連ねている。承久元(1219)年1月、将軍の源実朝が暗殺された時の行列にも清重は従っていた。そして、将軍暗殺の翌日、北条政子と主だった御家人100人ほどがいっせいに出家するが、清重もこの時に出家し定蓮と名乗った。
鎌倉幕府と朝廷が対立した承久の乱では、北条義時や大江広元・小山朝政などとともに「宿老」の1人として鎌倉に留まった。その後、元仁元(1224)年閏7月、北条泰時が執権に就任した直後に発覚したクーデター計画の際には、北条政子のもとに呼び出され、幕府の安定に協力を求められている。これが『吾妻鏡』に葛西清重がみえる最後である。
清重の没年については諸説あるが、嘉禄3(1227)年の香取社(現香取神宮)正神殿造営に清重の名があるので、この頃までは生存が確認でき、この後間もない時期に亡くなったものと思われる。葛飾区四つ木の西光寺近くには、清重墓所と伝わる清重塚が存在する。
葛西清重は、源頼朝の平氏追討に大きな貢献をし、鎌倉幕府成立後も有力な御家人として幕府の政治に関わっていた。弘安年間(1278〜1287)に無住によって著された『沙石集』注釈1-2には、「芳心があって弓箭の道にも優れた人物」として清重が登場しており、鎌倉時代において、すでに武士の模範となる人物の1人としてその名を知られていたことがわかる。また、他の史料から裏付けることができないため伝説とみなされているが、『曽我物語』注釈2の中にも、清重が馬術に巧みであったことが記されている。しかし、このような伝説が生じる背景には、清重が実際に馬術に優れていたからであるとみられ、武士としての性格の一端がうかがえる。
葛西氏の当主は、清重以降、清親・時清・清経・宗清・清貞と継承された。源頼朝以来の有力御家人が執権の北条氏によって滅亡に追いやられるなか、葛西氏は北条氏とも良好な関係を築きながら命脈を保ち続け、鎌倉時代を御家人として生き抜いていった。
注釈1-1:文治5(1189)年に源頼朝率いる鎌倉軍が、平泉を本拠とし奥州に君臨した藤原氏を攻め滅ぼした合戦。奥州藤原氏が頼朝の弟義経を平泉にかくまったことがきっかけとなっている。
注釈1-2:鎌倉時代中期の仏教説話集。日本だけでなく中国やインドの話題など多岐にわたっている。
注釈2:鎌倉時代に起きた曽我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物語。