子ども葛飾区史

第2章 葛飾の歴史


第6節 江戸時代

■江戸の暮らしを支えた葛飾の農作物 :

拡大する江戸の範囲
最初は、江戸城の周りだけが江戸と呼ばれていましたが、まちが整備されて人が増えてくるとだんだん広がり、どこまでが江戸かはっきりしなくなりました。そこで、1818年に幕府は江戸の範囲を決めました。

江戸朱引図

1818年に江戸の範囲を幕府が示した地図です。赤い線の内側が江戸で、黒い線は町奉行所が管理していた範囲です。
戻る時は右上の×をクリックしてください



葛飾の水田
 平和な時代になり、江戸の人口は増加を続けます。18世紀には100万人ほどになり、世界有数の大都市となりました。この江戸の人びとの暮らしを支えたのが葛飾の農作物です。
 江戸幕府は、米などの年貢(税)により工事やまちづくりを行っていました。そこで、米の生産量を増やすために、荒地を開発して田畑にしていきました。葛飾も開発により田畑ができ、村の数も増えて、室町時代に16村だったのが、江戸時代初期には30町村になりました。また、米の生産高も増え、江戸時代の後期には約1万8000石になりました。葛西領は「葛西3万石」といわれた水田地帯だったのです。
 新たな水田をつくるときに課題となったのが、水の確保でした。水田には多くの水が必要ですが、土地のかたむきが小さく水が流れにくい葛飾では、川から水を引き、安定して水を確保するのが難しかったのです。そこで「溜井」をつくりました。溜井とは、川をせき止めてつくった水をためておく施設です。この溜井から農業用の水路が流れていたのです。葛西用水や小合溜井とそこから流れる上下之割用水などが整備され、葛飾の田畑をうるおしました。

上下之割用水(1914〔大正3〕年ごろ)(奥戸付近)
戻る時は右上の×をクリックしてください

現在の水元小合溜井
戻る時は右上の×をクリックしてください

1880(明治13)年の地図に見える河川と用水路
戻る時は右上の×をクリックしてください