葛飾の伝統野菜

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ページ番号1005017  更新日 平成28年2月22日

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葛飾の伝統野菜を紹介します。

金町コカブ

金町コカブ・千住ネギの由来板の写真
金町コカブ・千住ネギの由来板

 金町コカブは、明治末期に金町(現在の東金町)の長谷緑之助が、下千葉中生というコカブを、4月に早どりできるように改良しました。
 当時は、千住市場に出荷され、新カブと言われていましたので、高級料亭等に高値で取り引きされていました。
 その後は金町一帯で広く栽培されるようになり、さらに、東京から全国に広まったカブの品種です。
 「金町コカブ」は春に花芽が出にくい性質をもっているため、春の栽培がしやすい特性を生かして、金町周辺では盛んに生産が行われました。
 青物が乏しい春先、霜や寒さで傷んでいない青々とした葉や真っ白で光沢のあるカブは消費者に大変喜ばれました。

千住ネギ

 葛飾区北部にあたる金町、水元、新宿地区一帯は、昭和の中期までいわゆる千住ネギの産地として全国的にも有名でした。
 当地区の精農家たちは、もともと千住付近(現在の荒川区と足立区にまたがる地域)にあった古い「熊手ネギ」や「砂村ネギ」などから選抜改良して、良質な「根深一本葱」を競って作りだし、これらを総称して「千住ネギ」といわれてきました。中でも地元が生んだ「金長ネギ」は、その品質の良さから全国的に広く作られていきました。
 当地での千住ネギ栽培の起源は不明ですが、本格的生産は明治中期以降とされ、日清、日露の戦勝景気で需要も急増し、庶民の食生活を豊かにしてきました。
 土質が適していた当時産の千住ネギは軟白部分が長くて締まりも良く、煮くずれしないために、とくにすき焼きなどの鍋物に好んで使われました。
 千住市場には、江戸時代から千住ネギの荷が集まり、当地では大正の頃、正月の初荷に1束150キログラムの巨大な荷姿のネギを出荷して祝うなど、当時の産地の勢いと、農家の心意気がうかがえます。

 金町コカブ・千住ネギの由来板 葛西神社(東金町八丁目)

本田ウリ

本田ウリの由来板 熊野神社(立石八丁目)の写真
本田ウリの由来板 熊野神社(立石八丁目)

 江戸の人口が増加するにしたがって、江戸近郊の農村では、換金食物として野菜作りも始まり、ここではウリなども盛んに栽培され本田ウリと呼ばれていました。
 農家はウリを収穫すると、船に積んで中川を下り、本所を流れる堅川や小名木川を通って、江戸に運んでいました。当時、果物などを水菓子と呼んでいましたが、江戸に上る途中で積み込まれる、本所で獲れるウリと比べると、本田ウリは大ブリで格段に美味しい水菓子と評判で、文政13年(1830)の随筆「嬉遊笑覧」に「本所瓜美味ならず。本田瓜といふ形甚大なり<増輔江戸鹿子>云々いへり。是ほんでん瓜なり。今これを銀まくはといふ。金まくはに対しての名なり」とあります。
 本田ウリは熱すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれていました。
 瓜売りが、瓜売りにきて、瓜売り残し、売り売り返る、瓜売りの声。
 なんとも、のんびりした、江戸の暮らしがうかがえる歌です。

亀戸大根

亀戸大根の写真
亀戸大根

 亀戸大根は、江戸時代から明治時代に現在の江東区亀戸周辺で栽培され、小振りで葉が柔らかいのが特徴で、辛味のある漬物として庶民に親しまれてきました。
 本区のダイコンは、明治の末期頃までは細根種を栽培していましたが、その後亀戸方面から種子を求めて、奥戸・金町地方に栽培されたのが始まりです。大正初期にその最盛期を迎え、この頃から産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。

小松菜

小松菜の出荷作業の写真
小松菜の出荷作業

 小松菜は、本区の主要農産物の一つで、その起源は旧幕時代徳川将軍が葛西地方に鷹狩に来たときに地方の名物として菜を献上し、はじめて「小松菜」の名称を得、以後引き続き献上する慣例となりました。
 現在も周年栽培が行われ、特に関東地方の雑煮菜として親しまれています。

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