葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■第2次世界大戦下の生活 :葛飾区内の戦災

 昭和17(1942)年4月18日に太平洋上にあったアメリカ軍の空母ホーネットから発進したB25爆撃機16機が日本本土に襲来し、東京、横須賀、川崎、名古屋や神戸などを空襲した注釈1。この空襲では葛飾区内も爆撃や機銃掃射を受け、水元国民学校高等科の児童が1人死亡している。この日は土曜日であったため、学校の授業は午前中で終わり、児童は12時30分頃帰宅の途に就いた。その直後に空襲が始まった。
 当時、水元国民学校の教頭であった西川千秋の記録によると、被災した児童は、飛行機を認知したのが校門を出た所であったため、日頃の訓練どおりに急いで学校の校舎内に引き返し、教室へ逃げこもうとしたところ、1階の廊下で機銃に被弾し命を落とした。水元国民学校ではこの少年の写真を校舎内に掲げ、児童達は毎朝礼拝したという。 太平洋戦争に突入する以前から、日本本土への空襲は想定されていて、町内会を中心にたびたび防空演習が行われていた。防空壕も準備され、空襲への備えは官民あげて行われていた。
 昭和 19(1944)年7月にはサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、B29による空襲が現実のものになった。葛飾区内には同年11月29日から本格的な空襲が行われるようになった。終戦までに延べ12回の空襲があり、122人が死亡した。
 昭和20(1945)年3月9日から10日にかけては、東京大空襲があった。大空襲による大火災は葛飾区に及ぶことはなかったが、壊滅的な被害を被った東京の下町から多くの被災者が荒川放水路を越えて避難してきた姿は、当時の区民に強く記憶されている。当時中学生だった前沢正己の手記によると、「(10日の朝)、奥戸橋に着いてびっくりした光景は、あの広い通りが焼けただれた服装(まるでぼろ布を着ているよう)の避難民が焼け残った棒を杖がわりによろめくように力なく歩いていく姿だった」という。この避難民の列はさらに3日ほど続き、立石の婦人会では湯を用意して励ましていたという。

葛飾区役所焼失
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高砂町会による防空演習
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バケツリレーによる防空演習
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注釈1:日本本土に対する初めての空襲で指揮官の名前からドーリットル空襲と呼ばれている。