葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■鎌倉時代の葛飾と葛西氏 :鎌倉御家人葛西氏の広がりと葛飾

 葛西清重は鎌倉幕府が成立する以前から葛飾区域を含む葛西地域に勢力を有しており、幕府成立後も源頼朝から葛西地域の領有を認められていた。また、葛西氏は頼朝が鎌倉に入って以降、葛西地域に加え、鎌倉の葛西ヶ谷にも屋敷を構えていたとされる。
 また、清重は葛西以外にも頼朝挙兵以後の数々の功績により、全国各地に所領を与えられた。現在確認されているのは、葛西地域に近い武蔵国丸子庄、奥州藤原氏攻めの功績によって与えられた陸奥国の磐井郡(岩手県一関市・平泉町ほか)や伊沢郡(岩手県金ヶ崎町ほか)、牡鹿郡(宮城県女川町・石巻市)などがあげられる。武蔵国丸子庄は東京湾の西側、多摩川の河口付近に位置し、利根川や太日川などが東京湾に流れ込む河口部の低地帯に位置する葛西地域と似たような環境にあったと考えられる。また、陸奥国に与えられた所領のうち、牡鹿郡は北上川の河口に位置し、他の陸奥国の所領と水運で結ばれていた。葛西氏は全国にある所領を、水運を使って経営していたとみられ、本拠地とされる葛西地域には全国各地から様々な物資が運び込まれ、また葛西地域から各地へ物資が運ばれていったと考えられる。
 葛西氏は陸奥国などにある遠隔地の所領には、代官を派遣して経営にあたらせていた。こうした代官には、葛西地域出身の人物が任命されていた可能性がある。葛西清重から数えて5代目の当主である葛西宗清の代官であった二江入道承信は、陸奥国平泉の中尊寺との訴訟に登場し、下総国香取社(香取神宮)との連絡役を務めている。二江という名は葛西御厨内にみられる地名に由来するとみられることから、葛西地域の出身で、宗清に登用され代官に任命されていたと思われる。他にも葛西氏一族の代官として、葛西御厨内の地名で、現在の葛飾区内の地名でもある青戸を名乗る青戸二郎重茂の活動が史料より知られる。また、『吾妻鏡』安貞2(1228)年2月12日条によると、2代目当主葛西清親は、鎌倉の将軍家御所において行われた相撲大会に、芝俣平次三郎を召し出して将軍の御前で相撲をとらせている。この人物が芝俣を名字としているのは、現在の葛飾区柴又に関係していたからであると考えられる。葛西御厨や葛西氏の所領支配の仕組みについては不明な点が多いが、水上交通を利用して各地の所領を結び付けるとともに、本拠地である葛西地域の人材が代官として所領の経営などに関わっていたとみてよいだろう。

鎌倉の葛西ヶ谷

地名は葛西清重の屋敷があったことに由来するとされる。
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