子ども葛飾区史

第2章 葛飾の歴史


第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :

初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。



空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
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水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)

石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。
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葛飾区の空襲被害状況
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