子ども葛飾区史

第2章 葛飾の歴史


第9節 昭和時代

■学校生活への影響 :

学童疎開  
 東京もアメリカ軍の空襲を受けるようになり、1944(昭和19)年から国民学校初等科の児童(小学生)は地方の農村へ集団で疎開することになりました。葛飾区の児童は、親元をはなれて新潟県で集団生活をしました。疎開先では、新潟の児童といっしょに勉強し、寺や旅館などで生活しました。食べ物は少なく、朝食はみそしる、昼食には豆、夕食もみそしるだけという日もありました。  親に会いたくて、とまっている場所をこっそりぬけ出して葛飾区まで帰ってきた児童や、ぬけ出した後に近くの駅で見つかって連れもどされた児童もいました。

葛飾区児童の疎開先での食事

食事はみんなでいっしょに食べました。
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葛飾区児童の疎開先での生活

お寺の本堂に机をならべて勉強しました。
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疎開した金町国民学校児童の日記
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(コラム)飛行機の部品をつくった女子生徒
 共栄女子商業学校(現在の共栄学園)の教師で、西新小岩にあったアルミ工場で働く生徒を引率した木村礎さんは、「職人が行っていた航空機の燃料タンクをつくる作業を女子生徒が行った。体が小さい人には無理で、座ってタンクをみがいた。不良品は、飛行機に乗っている人の命をうばうことになるので、のんびりとしたふんいきは全くなかった」と言っています。