子ども葛飾区史

第2章 葛飾の歴史


第9節 昭和時代

■戦後の復興と高度経済成長 :

高度経済成長期の葛飾区
①農地から住宅地へ  
 葛飾区は、都心への交通が便利だったことから、高度経済成長期に人口が大きく増加しました。1955(昭和30)年に約29万人だった人口が、15年後の1970(昭和45)年には約47万人になっています。  
 人が増えるにつれて、それまで多くあった田畑が住宅地に変わっていき、青戸や金町などに団地もできました。また、人びとの日々の暮らしを支える商店も増えました。
②成長を支えた町工場  
 工場の数もさらに増えていきました。1960(昭和35)年には3069工場、1970(昭和45)年には4736工場になります。働く人が10人未満の工場が多く、ボルトやナットなどのさまざまな部品をつくっていました。
③高度経済成長のかげで  
 日本が豊かになる一方で、環境の汚染が問題になりました。工場や家庭から出るごみの量は増え、工場からの排水や排煙、自動車からの排気ガスなどにより、川や空気が汚れていきました。  このような問題に対応するため、1964(昭和39)年に葛飾清掃工場が水元にでき、1968(昭和43)年には公害防止を目的とした「葛飾メッキ工場アパート」を四つ木につくりました。

農地から住宅地へ

線路の先には青戸の公団住宅が見えています。
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金町駅前の高層公団住宅(40年代)

15階建ての高層住宅です。
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立石の商店街(1968〔昭和43〕年)
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ボルト・ナット工場

葛飾区郷土と天文の博物館に再現されています。
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葛飾清掃工場(1965〔昭和40〕年)
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