葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■葛飾と水⑥用水から親水公園へ :明治期以降の用水

 村に任されていた用水の管理は、明治時代に入ると水利組合に移管された。明治3(1870)年9月に金町と柴又に普通水利組合が結成された。明治17(1884)年2月には、葛西用水路連合集会規則が制定され、葛飾区域が属していた東京府南葛飾郡から2人の議員が選出された。明治19(1886)年には、用水組合加入の町村に組合規約が設けられ、戸長(後の町村長)が管理者となった。明治22(1889)年の水利組合条例の公布により、明治24(1891)年に創立委員を集めて新制度の組合が結成された。同年に奥戸水利組合が結成されたのをはじめとして、大正10(1921)年には南葛飾郡では36の組合があった。その後、用水の利用が盛んになり、用水不足を招くこともあったが、徐々に都市化が進み、用水の不要を招き、統廃合も進んだ。
 昭和7(1932)年の葛飾区誕生で、各町村の水利組合では整備・統合の機運が起こり、昭和9(1934)年に各水路別に西葛西第一部組合、葛西用水や上下之割の3つの水利組合となった。