葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第1節 南葛飾郡の時代

■交通網の整備 :帝釈人車鉄道

 明治から昭和にかけ、人が動力となって線路上の車両を押す人車鉄道は、全国に29あった。帝 釈人車鉄道は、日本鉄道海岸線(現JR常磐線)金町駅と柴又帝釈天間の約1.5㎞を結ぶ全国で5番目の人車鉄道として、明治32(1899)年 12 月 17 日に開業した。車両は、10人乗りが59両、6人乗りが5両あった。複線で、車両を押す押夫は、普段は4人であったが、60日毎の庚申の日には120人前後の臨時押夫が雇われ、2人で押した。運賃は、片道5銭、往復9銭であった。
 明治45(1912)年4月27日に京成電気軌道と特許権と財産の譲渡契約を結び、大正元(1912)年8月19日に解散した。京成電気軌道は、電化工事の終了まで人車を運行したが、翌年10月2日に人車鉄道は電気による鉄道へと姿を変えた。なお、不要になった車両は、大正4(1915)年11月に開業した茨城県の笠間稲荷人車軌道で再利用された。
 人車鉄道が複線であったことは、絵葉書からも確認できる。

帝釈人車鉄道(絵葉書)(明治38〔1905〕年頃)

後ろ姿の人物は、右から押夫・乗客・題経寺(柴又帝釈天)の住職であろうか。帝釈天を見ている貴重な1枚である。
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明治42(1909)年の地形図に見る軌道
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「迅速測図」(左)と現在の地図(右)に軌道を載せたもの
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