葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■律令国家と大嶋郷戸籍 :律令国家の東北経営と坂東

 律令国家は7世紀後半以降、東北地方の経営にも着手している。東北の蝦夷との戦いを進め、8世紀には陸奥・出羽に軍事拠点となる城柵を造っている。神亀元(724)年に陸奥国の国府として、大野東人によって多賀城(宮城県多賀城市)が造られた。天平宝字3(759)年には坂東注釈1の兵士や民衆を徴発して桃生城(宮城県石巻市)、雄勝城(秋田県横手市付近)を造らせている。
 東北へは8世紀前半から東国諸国より兵士が派遣されていたが、特に8世紀後半には下総国からも相次いで兵士が派遣された。宝亀7(776)年に出羽で発生した叛乱の鎮圧のために騎兵を派遣し、宝亀 11(780)年には兵士と食料を多賀城に送った。
 一方、軍団制は次第に弱体化して機能しなくなった。そのため、延暦 11(792)年に新たな兵力として郡司の子弟からなる健児を設け、軍事力の強化が図られた。下総国では150人の設置が指示されている。その後、律令国家は蝦夷に対して積極的な攻勢に出る。延暦13(794)年に10万人を派兵し、さらに延暦20(801)年に坂上田村麻呂を征夷大将軍とした4万人の兵を送り込み、翌年には胆沢城(岩手県奥州市)を築き、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野といった諸国の浪人4000人を送っている。
 蝦夷との戦いに用いる軍事物資の調達も坂東諸国の役目であった。宝亀7(776)年に安房・上総・下総・常陸の4国で船50隻を造って陸奥国に置き、翌年には相模・武蔵・下総・下野・越後の5国が甲200領を出羽国に送った。また、天応元(781)年には相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の坂東諸国が陸奥国へ米を海運で送り、延暦23(804)年にも下総国など坂東諸国が米を陸奥国に送っている。
 蝦夷との交戦が長期化する中で、陸奥国への兵士の移動や物資輸送の需要が増し、文書の通達も迅速性が必要となったことで、宝亀2(771)年に東海道の経路が変更された。それまで東山道に所属していた武蔵国が東海道に編入され、相模国から武蔵国を経て下総国に向かう陸上交通が重みをもつことになり、東京東部の低地帯に東海道本道が通ることとなった。この年の変更によって、東海道本道は相模国府(神奈川県平塚市)から武蔵国府(東京都府中市)、そこから乗潴駅(東京都杉並区付近)、豊島駅(東京都北区付近)を経て、東京低地を横断し、井上駅(千葉県市川市)に至った。井上駅は下総国府が所在した国府台南側の砂州上に比定されている。井上駅から先は上総国府を経由して常陸国へ至る経路をとっていたが、延暦24(805)年に井上駅から北上し、常陸国府(茨城県石岡市)を経由し、陸奥国に達する経路となった。神護景雲2(768)年には武蔵国の乗潴駅・豊島駅、下総国の井上駅・浮嶋駅・河輪駅に馬10疋を置くことが定められている。東海道本道となる以前に、武蔵国から下総国へと向かう順路の需要が高まっていたことがうかがえる。
 承和2(835)年には、渡河用の舟が下総国太日川では2艘から4艘に、武蔵国と下総国の境の隅田川でも2艘から4艘に増やされている。太日川は現在の江戸川の流路(近世以前の利根川本流)であり、隅田川は武蔵国と下総国の境であった古隅田川の流れである。

古代東海道の駅路の変更と葛飾郡

宝亀2(771)年に武蔵国が東海道に編入された
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注釈1:坂は東海道の足柄坂(峠)、東山道碓氷坂(峠)をさし、これらの坂の東方の諸国を坂東諸国という。具体的には相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の国々である。