葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■律令国家と大嶋郷戸籍 :大嶋郷戸籍

 律令国家は民衆を把握するための台帳として戸籍を作った。天智天皇9(670)年の庚午年籍が最初の戸籍であり、持統天皇4(690)年の飛鳥浄御原令にもとづく庚寅年籍が全国的規模で実施された最初の戸籍と考えられている。
 戸籍は6年ごとに作り替えられ、永久保存とされた庚午年籍を別にすれば、30年が保存年限であった。戸ごとに戸主が提出した手実と呼ばれる性別や年齢を書いた申告書を、里(郷制定以後は郷)ごとに1巻にまとめ、それらを基に戸籍を3通作成し、2通が中央の太政官に送られて民部省や中務省で保管され、1通は国府に保管された。
 戸籍には戸を単位とする戸主、その妻子、兄弟姉妹、従弟・寄口注釈1の名・年齢・続柄や所有する奴婢の名・年齢が記された。
 大宝2(702)年の美濃国・筑前国・豊後国の戸籍、養老5(721)年の下総国の戸籍が奈良県の 正倉院に伝来している。大宝2(702)年の戸籍は大宝令施行後、最初の戸籍であり、養老5(721)年の戸籍は郷里制移行後の初めての戸籍である。この養老5年の戸籍は、葛飾郡大嶋郷・倉麻郡意布郷・釬托郡山幡郷注釈2の戸籍が残っている。このうち、大嶋郷は葛飾郡南部にあり、現在の葛飾区・江戸川区付近にあったと考えられる。大嶋郷戸籍によると、大嶋郷には甲和里・仲村里・嶋俣里の3里があった。3里の人数は1191人(甲和里454人、仲村里370人、嶋俣里367人)と推測されている。地名から、嶋俣里は葛飾区柴又だと考えられている。甲和里は江戸川区小岩付近の可能性があり、仲村里の比定地は諸説ある。大嶋郷戸籍の人名は孔王部姓の者が大多数を占める。孔王部以外に、刑部・私部・長谷部・土師部などもみられるが少数であり、婚姻などによって大嶋郷周辺から入ってきた人たちと考えられる。
 この戸籍は、保存期限を過ぎて不要になったものを、東大寺写経所で戸籍の裏面を帳簿などに再利用し、手を加えたため原型と留めてはいないが、郷戸及び房戸の様子をうかがうことができる。
 郷戸の戸主孔王部比都自の房戸では、妻の藤原部奈為売、子の宮麻呂、孫が4人、さらに甥、姪が5人記載されている。比都自の兄弟2人の名は無く、死亡した可能性もあるが、戸に入っていない理由は不明である。これとは別に、比都自の弟孔王部黒人の房戸がある。黒人の房戸は妻孔王部阿古売とその母三枝部宮売、宇多麻呂ほか8人の子と、宇多麻呂の子2人で構成されている。この2つの房戸から郷戸が成る。他の郷戸では、郷戸主の房戸とその兄弟が房戸主である房戸、郷戸主の従兄弟が房戸主となっている房戸がみられる。郷戸内の房戸数は2〜4である。
房戸内の人数は5〜6人程度から15〜17人である。

中央官制
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大嶋郷戸籍の表面

戸主(郷戸主)に孔王部比都自という文字が見える。左側に孔王部黒人の房戸が見える。
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大嶋郷戸籍の裏面

戸籍の裏面の紙の継目に「下総国葛飾郡大嶋郷養老五年戸籍」という文字が見える。
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孔王部比都自の郷戸の系図
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注釈1:戸主との血縁的な続柄が記されていない戸口。
注釈2:倉麻郡は相馬郡(千葉県北西部)のことである。意布郷は千葉県我孫子市付近にあったと考えられている。釪托郡は香取郡(千葉県北東部)のことで、山幡郷の比定地は千葉県香取市付近と推定されている。