葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■東京低地の陸地化と集落の形成 :新たな開発

—柴又・奥戸・東新小岩における集落の成立—
 東京低地では5世紀に人が活動した痕跡は少ない。葛飾区内では6世紀の古墳時代後期になると、柴又・奥戸・ 東 新小岩などで集落が形成され、これらの地域では6世紀後半の土師器、須恵器といった土器が出土している。東京低地を見渡してみると、古墳時代前期に集落であった場所が、古墳時代後期に再び人々の活動の場となっている。一方、葛飾区内では柴又・奥戸・東新小岩などのそれまで開発されていなかった場所で遺跡が見つかっており、この時期に新たな集団が入ってきたことが考えられる。
 この集団がどのような人々であったかを考える上で参考になるのが「高橋氏文」である。これは、古代の朝廷に仕えた高橋氏が、祖先の磐鹿六鴈命以来、天皇の食事を担当してきた由来を記した史料である。その中に、景行天皇が東国を訪れた際、「葛餝野」で狩りをし、その後食物を献上されたという記載がある。「高橋氏文」は平安時代初期に作成された史料であるが、ここにあらわれる「葛餝野」が古代葛飾郡に結びつくとすると、葛飾が王権と深く結びついた地域であったと推察できる。
 このことは、後述する養老5(721)年の戸籍に孔王部姓が多いことからも推定される。孔王部は穴穂部に通じ、5世紀後半に即位したとされる安康天皇は穴穂天皇とも呼ばれることから、穴穂部は安康天皇に奉仕した集団としての部民注釈1とも伝えられる。
 また、柴又・奥戸・ 東新小岩などの開発が始まる6世紀後半には、6世紀半ばに即位した欽明天皇の皇子に穴穂部皇子、皇女に穴穂部間人皇女がおり、彼らとの関係もうかがえる。したがって、この孔王部姓の集団を古墳時代後期における東京低地東部の開発集団とするならば、集落の形成は中央の政治的な動向に連動したもので、王権の関与があったことも推定できる。開発の時期が6世紀後半頃からであることからすれば、部民設定は欽明天皇の時期とみた方がよいだろう。
 柴又・奥戸・東新小岩の集落遺跡は奈良時代以降まで継続していて、この地域における古代集落の原型が6世紀後半から7世紀代にかけて出来てきたことがわかる。
 柴又の集落遺跡は江戸川右岸の微高地に立地する。この微高地は東西に長く、かつての海岸線の砂州と考えられる。ただし、江戸川に近い東部は南北方向にも長く延びていることから、砂州に自然堤防が合わさった地形と推定される。これまでの遺跡調査から、現在の江戸川河道の800 〜1000m西方では、6世紀後半頃に定住が始まり、7世紀後半から8世紀初頭に集落が広がっていったことがわかっている。奥戸・東新小岩の集落遺跡は中川左岸の自然堤防上に立地する。これらの場所でも6世紀後半から7世紀に居住が開始されている。

『本朝月令』に引かれた「高橋氏文」

矢印を付した行に「葛餝野」とある。
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注釈1:王族の奉仕集団の他、王権を維持していくための職能的集団、豪族に属する集団などに区分される。各地のべ(部)の集団から中央にトモ(伴)が送られ、トモの食料などの日常物資は部が負担した。部民制は7世紀後半で廃止されている。