葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代の葛飾における災害 :飛鳥・奈良時代の災害対応

 頻発する自然災害に対応するため、古代国家は令に災害対策の規定を取り入れた。戸令注釈1-1の遭水旱条では、水害・旱魃・蝗害などの自然災害によって穀物の実りが悪かった場合、国や郡は被害状況を調査して太政官に報告し、天皇に奏上して賑給を行うように規定されていた。賑給とは自然災害に遭った人々に対して食料などを施し与えることで、天皇の徳治注釈1-2を体現する重要な手段であり、被害状況を奏上された天皇が恩勅注釈2を発することで行われた。下総国でも、天平勝宝元(749)年に発生した旱と蝗害の際や、神護景雲3(769)年と天応元(781)年の飢饉の際にも賑給が行われている。また、延暦4(785)年の飢饉の際には都から使者が派遣されたうえで賑給を行っている。
 また、賦役令注釈3の水旱条の規定によると、田が水害や旱魃・虫害・冷害などに遭って穀物の実りが悪かった場合、太政官に被害状況を報告し、損害に応じて租・調・庸を免除するようにし、桑や麻が全損の被害を受けた場合は調を免除するようにした。さらに、災害があった年にすでに租・調・庸を納入し、労役に徴発されてしまった場合には、翌年の分から該当する分を免除するようにした。下総国では、天平神護元(765)年の旱の際に、その年の調・庸の7割から8割を免除するとした事例がある。
 疫病が流行した際の対策としては、しばしば医薬を支給し、また使者を派遣して「賑恤 」、すなわち慰問や賑給を行っている。「賑恤」の具体的な内容としては、人々の意見を聞くとともに、医療行為などの具体的な救済が施されたと考えられる。実際に下総国では、和銅2(709)年1月に疫病が流行したことから、薬を支給して療養にあたらせている事例がみられる。
 天平7(735)年から天平9(737)年にかけては、全国的に疫病が流行したことが知られているが、これに対して政府は典薬寮注釈4の意見に基づいて、諸国に疫病の治療法について指示した命令を発している。そこには、まず疫病の病名と症状が詳しく述べられており、次に病人の生活上の注意に触れ、どういった飲食物が疫病によいのかについて細かく書かれている。他にも薬の服用についての注意が書かれるなど、非常に具体的な指示が朝廷から地方の諸国に出されており、これらの内容を国司が国内の人々に伝えるよう命じられていた。

『令集解』 戸令45遭水旱条

『令集解』とは平安時代に成立した令の注釈書で、先行する令の注釈書の多くをまとめたもの。
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注釈1-1:令の編目の1つで、地方行政一般に関することや戸籍とそれに基づく課税方法、戸を構成する家族のことなどについて規定されている。
注釈1-2:徳のある王が国を治めること。
注釈2:天皇が人々を慈しみ憐れんで発する言葉。災害時以外にも天皇の交替や死、改元などの際に発せられ、天皇の権威を体現する。
注釈3:令の編目の1つで、税制や労働力の徴発に関する規定がある。
注釈4:律令国家の官司の1つで、宮内省の下にあり官人に対する医療活動と医療関係者の教育などを行う。