葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■田んぼを維持する :田植え

 田植えの前に肥料を入れる。田んぼの肥料には、昭和20年代までは主に下肥(人糞尿)を使った。広い田んぼに下肥をまんべんなく入れるために、セイマと呼ばれる目印を置き、ひしゃくでまいた。
 セイマとはわらを折ったものを田んぼの中にマス目状にさし、均一に肥料を施す目印にしたものである。セイマに向かって下肥をひしゃくで振り掛ける役をコエマワシといった。難しい作業なので熟練した人が行った。
 稲の苗を育てる苗代田は、ナエマと呼んでいた。ナエマは水の出し入れがしやすい田んぼを選び、田んぼの面積の1割程度をあてた。ナエマの床が固いと苗取りをしにくいので、やわらかく耕しておいた。苗取りをしやすくするために育苗中に1度追肥をしてやるとよいといわれた。
 4月下旬に種まきをした。小さな俵に種を入れ、用水路に3日ほど浸しておく。それを引き上げて日の光にさらし、再び俵に入れて2日ほど置いて保温すると芽が出てくる。これをナエマにまく。種まきは田んぼの神様が留守とされる卯の日を避けて行う。
 昭和30年代まで水苗代が使われていた。水苗代は苗の成長を見ながら水を調整するもので、頻繁に水を出し入れした。
 水の出し入れには水車と呼ばれる農具を使う。ナエマの場所によってはウツリと呼ばれる二人1組で使う縄のついた桶を使った。二人で縄を操り、桶を動かして用水から田んぼへ水を汲み上げる。水車を使う場合は汲み上げた水が直接稲に掛からないようにカマダンと呼ばれる土手を築いておく。
 カマダンには良い苗ができるよう、種まきをしたときに茨城県龍ケ崎市の女化稲荷神社の札と神社の砂を供えた。また、砂原町では前年の稲株で鳥の形を作ってカマダンに置はといた。鳩に種を食べられないまじないだといわれていた。苗代で約40日苗を育ててから田植えを行う。
 田植えの当日は、朝4時頃から苗取りを始める。苗取りは男女とも行ったが、細かな作業であるので女性が向いているといわれていた。両手で苗をつかみ、根をそろえ、わらで縛っていく。それを皿籠と呼ばれる底が平たい籠に入れ、あぜに運ぶ。あぜから苗を投げ入れる役割を「ネーマワシ(苗回し)」という。ネーマワシは田んぼの作業に熟練した人が行う仕事であった。植える人の作業効率があがるように、しかもそれぞれの田んぼで無駄なく使い切るように、量を見計らいながら苗を投げ入れていく。 
 用水に水が来ると一斉にシロカキをして田植えをした。1週間程度の間に田植えを済ませてしまう。集落によっては田植えの時期が野菜の出荷時期と重なってしまうこともあった。そこで田植えのために人を臨時雇用することが多く、こうした人たちをヒヨートリと呼んでいた。ヒヨートリとして雇用するのは埼玉県八潮市、三郷市、吉川市や千葉県松戸市などの農家の人たちであった。ヒヨートリを雇用するためには博労などの顔の広い人にあっせんしてもらった。
 ヒヨートリの賃金を「サクデマ(作手間)」という。サクデマは近隣で不公平がないように耕作面積が広く、ヒヨートリをたくさん使う農家同士が話し合って一律にした。1日単位で賃金を決めるジョウヨウと、田んぼの面積により契約をするウケトリという雇用形態があった。
 ヒヨートリの他に、親戚などに田んぼの作業の手伝いを頼むことをユイという。ユイはお互いに助け合う関係なので、賃金などは払わない。
 田植えが終わるとサナブリという祝いをした。サナブリの始まる前には田植えが無事に終わったことを感謝するため、植え残った稲の苗を2束交差させて縛り、荒神様に供える。また、家族や手伝いに来てくれた人、ヒヨートリなど田植えに関与した人を残らず招いてヒジキやソラマメ、ニシンの煮物などをごちそうした。

苗代とカマダン

用水路から取り入れる水が直接苗に当たらないように作られた土手であるが、豊作を祈願するお札を立てる場にも使われた。聞き取りにより復元して作図。
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田植えの様子(昭和12〔1937〕年、奥戸本町〔現奥戸〕)

苗回しをする人が後ろに写る。
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水苗代(昭和43〔1968〕年、奥戸本町〔現奥戸〕)
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苗取りの様子(昭和12〔1937〕年、奥戸本町〔現奥戸〕)

苗代の苗を束ねて田植の準備をした。
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