葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■安定成長時代の工業と商業 :安定成長時代を乗り越えた工業

 葛飾区の工場数は、戦前の昭和18(1943)年には約2350であったが、戦争の影響により昭和21(1946)年には約630へと減少した。しかし、高度成長期に入り、昭和30(1955)年に2562(うち従業員数100人以上の工場は43)になり、さらに、昭和45(1970)年には4736(同70)に増えた。
 昭和40年代半ばから50年代半ばにかけて、葛飾区内の工場数は増加したが従業員数は減少していった。
 これは、昭和47(1972)年に「工業再配置促進法」が施行され、工場の新増設などの規制・誘導を行ってきた工場三法注釈1が成立し、葛飾区外へ移転する工場が増えたこと、石油危機以降の安定成長時代を乗り越えるために生産ラインの機械化や不採算部門の廃止などの合理化を進めた結果だった。
 従業員数100人以上の工場数は、昭和48(1973)年に63であったが、2度の石油危機を経た平成2(1990)年には23に減少した。こうした、工場の移転や廃止は、跡地の活用方法という新たな課題を投げかけ、廃止された大同製鋼株式会社(現大同特殊鋼株式会社)の工場跡地は葛飾区が購入し、昭和60(1985)年に新小岩公園として開園した。
 また、葛飾区内には、従業員数10人未満の小規模工場が多く、金属・ゴム・玩具などの日用雑貨・機械部品を製造・加工して戦後急速に発展してきた。こうした従業員数10人未満の工場は、自動の機械を頼みとする大規模工場での製造加工とは違い、メーカーの多様なニーズに応じて「従業員の技」を駆使して多種少量の物を製造加工する特徴を持っており、経営に工夫を凝らして、2度の石油 危機による安定成長時代を乗り越えてきた。
 第1次石油危機の影響があった昭和50(1975)年には、葛飾区内の製造業全体の製造品出荷額等(製造品出荷額+加工賃収入額+修理料収入額+くず廃物収入額+その他の収入額)の総額が前年を約355億9000万円下回った。その中にあっても、1〜3人規模の工場では、昭和50(1975)年の製造品出荷額が前年より約4億円下回ったが、それを小規模工場の特徴を生かした加工賃収入や修理収入でカバーして、総額では前年の額を上回った。
 葛飾区内の製造業全体としては、昭和51(1976)年には昭和49(1974)年を超える約4886億4000万円の水準まで回復し、その後の第2次石油危機の間も着実に製造品出荷額等を伸ばしていった。
 葛飾区は、2度にわたる石油危機への対策として、積極的に中小企業融資を実施した。これにより、区内の工場は運転資金と設備投資の資金を確保できた。中小企業融資は、昭和49(1974)年に前年比で貸付件数が2.5倍、金額では5.3倍に増え、昭和55(1980)年には、前年比で貸付件数が1.3倍、金額では1.4倍に増えた。
 こうして、葛飾区内の工業は、その特徴と中小企業融資を活用して安定成長時代を乗り越え、バブル経済期まで着実に発展していった。

東京都内の工業地区図(昭和55〔1980〕年)
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葛飾区の工業(製造業)の製造品出荷額等(昭和48〔1973〕〜平成5〔1993〕年)
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大同製鋼の工場跡地の推移

広大な大同製鋼の工場跡地
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大同製鋼の工場跡地の推移

整備された新小岩公園(昭和62〔1987〕年頃)
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注釈1:「工業等制限法」(「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」及び「近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律」の総称)(平成14〔2002〕年7月廃止)、「工場立地法」、「工業再配置促進法」(平成18〔2006〕年4月廃止)の三法