葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■街並みの変化と工業の振興 :道路と橋の整備

 昭和24(1949)年頃の葛飾区内の道路は、『葛飾区政ニュース』では「泥田」のような「低湿道路」と表現され、歩行が困難であると共に不衛生であることが問題とされていた。このため区は、戦災によって大量に発生した「焦土」(焼土)を浅草、下谷、深川や本所方面から確保して道路の盛土工事を行った注釈1
 この後、砂利道と舗装道路の整備が進められ、昭和34(1959)年4月1日時点では、区が管理する道路の総延長に対して89.8%が砂利道、10.2%が舗装道路となった。「低湿道路」といった状況からは前進したが、依然として道路の質・量とも十分ではなく、本格的な道路整備は次の時代へと引き継がれた。
 また、昭和27(1952)年に荒川放水路(現荒川)と綾瀬川をまたぎ、葛飾区と墨田区方面とを結ぶ鉄橋の四ツ木橋が完成した。もともとは昭和14(1939)年に着工したが、戦争の激化に伴い工事が中止となり、昭和25(1950)年に再着工したものであった。これにより、区の交通の利便性が一段と向上した。

新設された亀有と青戸を結ぶ道路(昭和25〔1950〕年)
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開通当時の四ツ木橋(昭和27〔1952〕年)
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道路の盛り土について伝える『葛飾区政ニュース』(現『広報かつしか』)(昭和 24〔1949〕年1月)
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注釈1:「盛土への努力」、「低湿道路の福音 盛土工事始まる」『葛飾区政ニュース』第8・21号、葛飾区役所、昭和 24(1949)年。