葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■葛飾区の玩具産業 :第2次世界大戦後の玩具産業

 第2次世界大戦の後、日本の玩具は輸出産業として復活した。葛飾区では、関口加工株式会社(現株式会社セキグチ)が、戦争の激化によって中止していた人形玩具の製造を終戦と同時に再開し、昭和23(1948)年には海外の得意先との取引を再開した。
 高度成長期には、葛飾区で誕生した数多くの玩具が国内外でヒットした。後の株式会社タカラと株式会社トミー(現株式会社タカラトミー、平成 18〔2006〕年に合併)が発売した「ダッコちゃん」(昭和35〔1960〕年発売)、鉄道玩具「プラレール」(原型となる「プラスチック・汽車レールセット」昭和34〔1959〕年発売)、「リカちゃん」(昭和42〔1967〕年発売)、ミニカーの「トミカ」(昭和45〔1970〕年発売)、関口加工株式会社の「モンチッチ」(昭和49〔1974〕年発売)などが人気となり、「おもちゃは葛飾区の地場産業」といわれるようになった。
 玩具は複数の工場の分業によって製造された。金型の製造、資材の裁断、プレス、成型、彩色、メッキ加工、箱詰めなどそれぞれの作業を行う町工場がひしめき合っていた。そして、大手の玩具メーカーから商品の発注を受けると近所の工場同士が協力し合って1つの玩具を完成させた。
 こうした中で高度成長期になると、玩具産業が密集する東京東部は、市街地化の進展により工場敷地の確保が困難になると共に地価が高騰し、事業の拡大が難しくなった。また、川に囲まれた低地である東京東部は、従来から台風の被害などによる水害に弱かったが、工業用水として地下水が汲み上げられ地盤沈下が起こったため、水害の危険性が増した。さらに、道路建設が自動車の増加に追い付かず、交通渋滞や事故が頻繁に発生し、人出不足も問題となった。このため、東京東部の工場が集団で移転して「おもちゃ団地」を作ることになった。
 昭和40(1965)年、栃木県下都賀郡壬生町に第1次集団移転としてトミー工業株式会社をはじめとする11社が進出し、昭和43(1968)年には28社を数えるまでになった。
 さらに、生産や販売の拡大のため、海外に工場や関連会社を設立する企業もあった。東京の玩具製造・販売は東部地域だけで完結せず、世界規模で行われるように変化していった。
 このように、玩具産業のありようは時代によって変化してきたが、葛飾区の玩具メーカーは、現在も個性豊かな製品を開発・製造し、夢を発信し続けている。

モンチッチ© SEKIGUCHI
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プラスチック・汽車レールセット(昭和34〔1959〕年)

後の「プラレール」の原型。電動ではなく手で転がして遊ぶものだった。© TOMY
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トミカ

© TOMY 「トミカ」は株式会社タカラトミーの登録商標です。
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リカちゃん 

平成 29(2017)年に発売されたモデルです。© TOMY
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