葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■葛飾区の玩具産業 :苦難の時代を乗り越えて

 日本の玩具産業は第1次世界大戦後の不況の時期を乗り越え、昭和時代初期に躍進した。昭和2〜3(1927〜1928)年のセルロイド玩具の年間生産高が世界第1位となり、世界の総生産額の7〜8割を占めるようになった。さらに金属玩具の輸出額が急激に伸びたこともあり、昭和12(1937)年の玩具の輸出額は生産額でトップであったドイツを追い抜き世界第1位となった。昭和2(1927)年、 向島区(現墨田区)寺島町に設立された富山工場(現在、立石に本社をおく株式会社タカラトミーの前身)は、玩具業界初の流れ作業方式の工場であった。この工場で量産された「宙返り飛行機・ルーピング」は、輸出額の急増に貢献した。
 しかし、昭和12(1937)年7月に日中戦争が始まって以降、玩具の主な輸出先であったアメリカやイギリスでの日本製品のボイコット運動が起こり、また軍需用の資材を確保するためにゴムや金属などを材料とした玩具の製造が制限されたことから、玩具産業は大きな打撃を受けた。このような状況の中、富山工場は、昭和16(1941)年、本田立石町に太陽木工場を新設し、木製玩具の製造をはじめることとなった。
 さらに、昭和20(1945)年3月から5月にかけての空襲は、玩具の工場や問屋が多かった現在の台東区や墨田区などに大きな被害をもたらし、この地域の玩具産業は壊滅的な状態となった。一方、葛飾区や足立区などの工場は空襲の被害が比較的少なかったことから、第2次世界大戦後の玩具産業を支えていくことになった。

宙返り飛行機・ルーピング(昭和5〔1930〕年発売)

ぜんまいによって前進と後方宙返りを繰り返す。1日最高2000個を作り、1年半も注文が続いたという
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