葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第1節 南葛飾郡の時代

■工業地としての発展 :分業によるもの作り

 大正12(1923)年に刊行された『南葛飾郡誌』によると、大正11(1922)年には本田村に22、亀青村に3、新宿町に2、金町村に1つの工場があった。昭和4(1929)年に刊行された『本田町誌』によると旧本田町内で操業する工場は51あり、その業種は染色業・布さらし業・ゴム工業・鉄工業・セルロイド製造業などがあった。同業種の工場が一定の地域に集まる傾向があり、染色業は立石や原、布さらし業は立石、鉄工業は渋江に多かった。 
 時代がやや下るが、昭和24(1949)年の統計によると、葛飾区内の工場1274のうち、従業員9人以下の小さな工場が 928 に達している注釈1。これらの小さな工場は、労働力の半分近くが家族や親戚によってまかなわれていて、経営規模が小さくなればなるほどその傾向が強かった。
 家族が主体で経営する工場が多いことは葛飾区・墨田区・荒川区など東京東部の工場の特徴といってよい。こうした小さな工場は、細分化された分業制によって1つの製品を作っていた。
 四つ木で盛んであったメッキ製品の製作を例に挙げると、メッキする製品の型を作る型屋や型を使って材料を成型する型抜き屋、成型された材料を磨く磨き屋などの職種がメッキ工場の下請けとして関わりを持っていた。これらの工場を順番に回って、最後にメッキ工場がメッキ塗装をして1つの製品になっていく。こうした分業制は多くの製造業で行われていて、分業の最小規模はいわゆる内職と呼ばれる臨時雇用の労働者によって担われていた。
 家族が主体となった工場は、繁忙期には多少の無理をしてでも納期に間に合わせることが可能だった。また、それぞれの技術に汎用性があって応用が利くため、業種を超えた協力関係が持ちやすかった。

ケトバシプレス

ケトバシプレスは金属加工業などの工場でよく見られた機械である。足で操作することから「ケトバシ」と呼ばれていた。これ1台で工場を経営する人も多かった。
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注釈1:『新修 葛飾区史』昭和 26(1951)年(571頁)による。