葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■中世の葛飾の暮らしと交通 :河川交通との関わり

 葛西地域は古利根川水系の下流にあたり、海と内陸を結ぶ関東の玄関口として水上交通の重要な位置にあったため、船による往来が盛んであった。現在の葛飾区には「青戸」や「奥戸」など「戸」のつく地名があるが、「戸」は「津」を意味する言葉であることから、葛飾区域には河川に設けられた港である「津」が存在していたことがわかる。これらの「津」は河川交通と陸上交通とを結ぶ交通の要であった。東京低地に「津」が多いのは、東京湾とつながる河川を利用した水運によって、荘園からの年貢の輸送や各地との連絡のために整備されたものと推測される。
 河川には関所である河関が置かれ、古利根川筋には猿俣関(葛飾区水元)、その上流部に大堺関(埼玉県八潮市)・戸崎関(埼玉県三郷市)などが、太日川筋には行徳関(千葉県市川市)・長嶋関(江戸川区)があり、14世紀半ばから15世紀前半にかけて下総国一宮の香取社(香取神宮)が管理をしていた。これらの河関は、下総国の内陸と江戸内海を船で渡る際に必ず通過しなければならない場所に設置され、船の往来を監視することができた。
 応永26(1419)年の「足利持氏御判御教書」に彦名関(埼玉県三郷市)が鎌倉の鶴岡八幡宮によって管理されていることが確認できる。また、応永33(1426)年に葛西地域の領主であった奥津家定が浄光寺の別当職と寺領を鶴岡八幡宮に関係する寺へ寄進するなど、室町時代になると葛西地域と鎌倉の鶴岡八幡宮との関係が深くなる。この背景には、鎌倉府の直轄領の形成と関係があったと考えられている。鎌倉府は関所における収入を意図的に鶴岡八幡宮などの社寺に寄進していることから、鎌倉の社寺による関所への関与は、鎌倉府の意向を受けたものとみられる。古利根川水系の上・中流部には鎌倉府直轄領が形成され、それらの直轄領と鎌倉の連絡を確保する目的で、鎌倉府が葛西地域の河川交通の掌握を図ったと考えられる。
 北条氏の支配下にあった16世紀半ばの葛西地域は、江戸城を拠点とした江戸衆によって支配されていた。北条氏も葛西地域における河川交通を管理しようとしており、天正4(1576)年に北条氏照が佐倉・関宿・栗橋とともに葛西での船の交通を認めている。佐倉は下総内陸地域への河川交通の拠点、関宿と栗橋は房総や関東地方内陸部への交通の拠点であり、それらの地域と河川によって結ばれ、東京湾に近い河口部の葛西の河川交通をあわせて管理することで、北条氏が関東地方南部と内陸部の間の水運を掌握していたことがわかる。