葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■葛飾郡から葛西へ :葛西御厨の伝領と衰退

 伊勢神宮において葛西御厨の管理を担当していたのは当初占部氏であったが、建治元(1275)年に伊勢神宮外宮の禰宜であった渡会氏にその職を譲り渡している。この後、葛西御厨は渡会氏の子孫によって代々管理されることになり、葛西御厨から伊勢神宮へ進上する物の催促や伊勢への輸送を、代官を現地に派遣するなどして行わせていた。
 14世紀半ば以降、葛西氏と葛西御厨の関係を示す史料は確認されていない。室町時代に入ると、新たな勢力が葛西御厨内に進出し始める。至徳4(1387)年と明徳4(1393)年の2度にわたって、足利義満が、関東管領を務めた上杉憲方に対して葛西御厨内の所領を安堵している。この所領は兄の上杉憲春のものであったので、これ以前から上杉氏が葛西御厨に進出していたことがわかる。上杉氏の進出後も、伊勢神宮は上杉氏を通して葛西御厨に対して米の納入を催促していることから、室町時代になっても伊勢神宮が葛西地域の領主を通じて葛西御厨に関与することができたと考えられる。一方で上杉氏に訴え、上杉氏の命令によって米を納入させているので、自力での米の徴収が難しくなっていたことがわかる。
 葛西御厨に関する史料は15世紀半ば以降確認されず、東国が戦乱に見舞われる享徳の乱の頃には、伊勢神宮の関与が弱まったと考えられる。また、天文22(1553)年の「外宮庁宣写」(『鏑矢伊勢宮方記』)をみると、同年までの数年来、伊勢神宮の支配が及んでいなかったことがわかる。
 このため、葛西御厨の権益回復をめざす伊勢神宮が、当時葛西地域を支配していた北条氏と交渉していたことが『鏑矢伊勢宮方記』などから確認できる。しかし、伊勢神宮の回復運動は実を結ばず、再び葛西地域が伊勢神宮の御厨となることはなかった。

「葛西御厨田数注文写」

応永5(1398)年に伊勢神宮側によって制作された葛西御厨の郷村名と田数を書き上げた帳簿。葛西御厨内にあった集落の名前を知ることができる。
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葛西御厨の範囲

応永5(1398)年の「葛西御厨田数注文写」に記載されている郷村名を略図に比定したもの。「上袋」「中曽称」については比定地が不明。「荒張」は「曲金」に、「堀内」は「木庭袋」に属していた。
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