第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代
■終戦直後の葛飾区 :
アメリカ軍は1945(昭和20)年8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾を投下し、大勢の人の命がうばわれました。このような状況の中、8月15日に終戦をむかえて日本はアメリカを中心とする連合国軍に占領されることになりました。
苦労した食料の確保
終戦直後は、食べ物がとても不足していたため、食糧の配給が遅れたり、全く配給されないこともありました。このため、人びとは自宅で野菜を育てたり、農家に直接買いに行ったりしたほか、ヤミ市とよばれる市場で買いものをしたりしていました。ヤミ市は、法律で認められていない市場なので、とても高い値段で商品が売られていましたが、食べ物を確保するために買わなければならなかったのです。葛飾区内には、金町・亀有・立石の駅周辺にヤミ市がありました。
こうした苦しい生活にたえられず、中には田畑の作物を盗んだりする人もいて、田畑が多く残っていた葛飾区でも被害がありました。
特に米の配給は少なく、代わりにトウモロコシなどが配られていました。このため葛飾区では1948(昭和23)年と翌年に、災害で被災した人などに配るための「救護米」を配給するように求める住民運動がありました。