葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :本田町(本田町・本田立石町・南立石町・本田渋江町・本田川端町・本田宝木塚町・本田篠原町・西篠原町・本田四ツ木町・本田若宮町・本田原町・本田梅田町・本田中原町・本田淡之須町・西淡之須町・本田木根川町)

 本田町は葛飾区内でも都市化が早かった地域で、昭和初期には本田立石町、本田原町、本田渋江町、本田四ツ木町などに工場が数多く立ち並ぶようになった。大規模な工場としては、大正4(1915)年に日本製紐株式会社(四つ木)、大正11(1922)年に東京ベルベット株式会社(渋江)、大正13(1924)年に大和護謨製作所が創業している。このころ中小の工場も立ち並ぶようになり、本田四ツ木町にはセルロイド工場、本田原町には染色工場、本田川端町にはゴム工場、本田渋江町には鉄工業、本田立石町には布さらし工場が多かった。戦後になるとメッキ工場や鉛筆工場なども増加し、工場の町となっていった。
 『本田町誌』(昭和4〔1929〕年)によると、本田木根川町、本田原町、本田立石町には16軒の染色工場が集まっていて、そのうち10軒が友禅染工場だった。これらの友禅染工場で染められたものは「東京友禅」と呼ばれていた。東京友禅とは、木綿やモスリンなどの生地に型紙を使って柄を染色していく技法で、関東大震災以後増加してきた。主に風呂敷やはんてんを染めていたが、昭和30年代には東京オリンピックに向けて国旗を染める業者が増加した。
 本田渋江町、本田木根川町にはボルト、ナットやネジなどを作る工場が多かった。昭和20年代までは鍛造といって、炉で材料を熱して加工する方式がほとんどだった。そうした鍛造を行う工場を「鍛冶屋」と呼ぶ人もいた。プレス機などの機械を用いたが、戦後になっても特殊なサイズのものは手作りで、農機具を作る鍛冶屋と同じように金床の上に熱した材料を置いてハンマーで成型していた。
 本田宝木塚町、本田川端町、本田梅田町には農地が戦後まで多く残り、蓮根などの野菜を盛んに栽培していた。
 また、本田渋江町には花栽培を行う農家が数軒あった。花車と呼ばれる花の行商用の荷車を引いて都心部へ売りに行った。本田木根川町には金魚の養魚を行う家もあった。本田立石町、本田渋江町などには、農業の副業としてしめ飾り作りをする家もあった。本田地区の農家には主としてこうした現金収入につながる農業を行い、稲作は自家用程度という家が多かった。
 大正時代は本奥戸橋付近ににぎわいの中心があったが、次第に立石駅を中心に多くの店ができていった。工場が多くなった昭和40年代には、立石駅前の商店街は非常ににぎわいを見せていた。立石の商店街には映画館、演芸場があり、空き地でサーカスなどの見世物が催された。
 現在の仲見世商店街は昭和20年代に闇市のような形ではじまった。日本に駐留していたアメリカ兵が車で乗り付けて遊んで帰る姿も見られた。
 毎月7のつく日には喜多向地蔵の縁日が開かれ、奥戸街道をはじめ立石の町は身動きが取れないほどにぎわった。

昭和26(1951)年頃の立石
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配給物資を受けとるため酒屋に並ぶ人々(立石)

配給物資の配布所として一般の商店が使われていた。
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四つ木1丁目付近(昭和12〔1937〕年1月)
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四ツ木橋の完成を祝う神輿の渡御(昭和27〔1952〕年)
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