葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :奥戸町(高砂町・諏訪町・鎌倉町・細田町・奥戸本町・奥戸新町・上小松町・上平井町・下小松町・平井中町)

 東京の伝統野菜の代表格として現在も生産されている亀戸大根は、昭和50年代には栽培農家が減少して、ごくわずかの農家が栽培を続けているだけになった。幻になりそうになった亀戸大根を高砂の数軒の農家が伝えていた。現在では少しずつではあるが生産量を増加させている。
 明治から昭和にかけて、細田町の中野家の人たちによって開発された中野甘藍は、暖地に適したキャベツとして東京近郊に広まった。野菜の品種改良が農家自身の手によって行われていた時代の代表的な作物のひとつである。
 鎌倉町は良質なワケギを生産することで知られ、主に神田市場に出荷した。
 奥戸本町の天祖神社では毎年10月の祭りの前日に、境内の鳥居に掛ける大きなしめ縄を氏子たちが総出で新しく作るという行事が行われている。神社に伝わる古文書によると、江戸時代には2月初午に行われていて、オビシャという名前の行事であった。水田がなくなった現在では、他の地域からわらを取り寄せてしめ縄を作っているが、かつては集落の人々が新たに収穫した稲のわらを持ち寄って作る習わしであった。手際の良い手つきで次々と縄がなわれ、夕方までには新しい大きなしめ縄が出来上がる。
 奥戸新町には、浅草で行われるほおずき市に出荷するほおずきを栽培する農家があった。また酉の市に熊手の店を出す家も何軒かあった。
 鎌倉町の八幡神社の祭礼はかつては10月25日に行われた。昔は神輿がなく、青年会が樽をのせた樽神輿を作って巡行していた。昔から現在まで続いている祭りの催しに演芸会がある。かつては青年会の人たちがお囃子を演奏し、神楽を上演した。鎌倉町の神楽は評判が高く、他のムラのお祭りなどに呼ばれることもあった。
 上小松町には句碑「力持連中」がある。溶岩で作られた塚の中に多くの力石があって、明治時代初期に活躍した草相撲の力士の名前が刻まれている。
 江戸時代から上平井町の特産物として知られているふのり作りは、大正時代の終わり頃を最盛期として平成の初め頃まで行われていた。6月から9月にかけての季節仕事であり、埼玉県八潮市、吉川市や三郷市などの稲作農家の人たちを雇用していた。
 9月下旬にふのり作りの全ての作業が終わる日には、「ふのりのサナブリ」というお祝いを行って労働に従事した人たちを慰労した。
 下小松町は蓮根やしめ飾りの材料であるミトラズの栽培が盛んであったが、昭和3(1928)年に新小岩駅ができてから急速に都市化が始まった。駅北側の原野には昭和13(1938)年、大きな工場が相次いで開業した。新小岩の駅南側には商店街が形成され、江戸川区域の集落にとっても重要な町になった。

高砂橋上空からみた風景(昭和11〔1936〕年)

『高砂之現勢』の口絵
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細田の農家(昭和50年代)
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天祖神社の祭礼の前日に行われる。
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完成前の蔵前橋通り
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新中川の開削工事
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