葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第1節 家とムラ

■ニワ・ズシ・クミ :独立性の強い小集団

 例えば水元猿町は、江戸時代の村の様子を記した『新編武蔵風土記稿』にも「本田 中新田 猿新田 村を三つに分かち民家も三所に区別せり されとこれは私に分かち唱ふるにて公には申すにあらす」とあって、景観的にも3つの家のまとまりに分かれていることが記されている。昭和20年代にはこの3つの家のまとまりは西、中、圦谷と呼ばれ、さらに東部という家のまとまりが新たに加わっていた。西は袋新田とも呼ばれていた。それぞれに神社があって、西では吾妻神社、中では熊野神社、圦谷は香取神社を祀っていた。このうちの香取神社は水元猿町全体の神社でもあった。水元猿町にはこの他にも浅間神社があって、新たに加わった東部がお祀りしていた。
 水元小合町は仲町・宮前・下手・大下というズシに分かれている。それぞれ神社を祀り、全体では香取神社を祀っている。1つの水元小合町というムラとしてのまとまりは明確にあるが、青年団や消防団はそれぞれズシごとに組織されていた。昭和になってから結成された町内会もズシごとにある。
 また、江戸時代は水戸街道の宿場町であった新宿町は、旧水戸街道に沿って上宿・中宿・下宿 に分かれていた。この家のまとまりは旧水戸街道に沿っているが、内野・鷺沼・下河原という宿場町から離れた家のまとまりもあった。鷺沼や下河原では、講行事などを独立して行っていた。
 また、現在の高砂1丁目である諏訪町(諏訪野)という集落は、かつては新宿の飛び地集落であった。諏訪町は新宿の宿場町からはかなり離れていて、現在では普段の付き合いでは新宿との関係は忘れられている。昭和10(1935)年には21軒の家があり、鎮守として八幡神社が祭られていた。阿弥陀堂というお堂があってここでは諏訪町の人たちによって定期的にお十夜と呼ばれる念仏が行われている。この阿弥陀堂の仏事は新宿の浄心寺が行っており、お十夜には浄心寺の住職が来るが、そうしたときに諏訪町の人たちは新宿とのつながりを思い出すのである。
 このように、葛飾区の伝統的なムラの成り立ちには、1つのムラが行事を行うときに便宜上いくつかの小集団に分かれるタイプと、独立性の強い小集団が連合して1つのムラを形成するタイプがある。このことはムラというまとまりがどのように形成されたのかを考える上で興味深いことである。

青龍講の碑

青龍講は群馬県の榛名神社を信仰する講中で、新宿下河原(現高砂6丁目付近)にある青龍神社を拠点としていた。
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高砂1丁目の阿弥陀堂で行われるお十夜

年に一度阿弥陀堂護持会の人たちによって行われる念仏。(平成27〔2015〕年)
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