葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :金町(金町・柴又町)

 明治初期の金町の様子を記した『明治九年十二月 地誌取調簿』(以下『地誌取調簿』)によると、金町は大向、上、中、西の4つの区に分かれていた。「区」とは他の地域でいう小字を指している。これに柴又を含めた地域が明治22(1889)年に金町村となった。
 このうちの大向は埼玉県に接している現在の東金町8丁目付近である。大向と上は、昭和30年代まで農村の面影が強く、金町小カブやネギなどは、東京の市場で優品として高く評価されていた。
 金町小カブは、明治43(1910)年に金町の農家によって開発された。耐寒性があることから東北地方や中国東北部などの寒冷な場所でも栽培され、専門に種をとって販売する農家も現れた。「金町小カブ」という品種は現在も全国各地で栽培されている。
 また、金町には小カブを使って漬物を作り、大手の漬物会社に販売する家があった。市場では値段が安くなってしまう割れた小カブも買ってくれるので、農家は喜んで出荷した。
 また上には半田稲荷があって江戸時代から参拝者が絶えなかった。境内に今も残る神泉遺構の玉垣には魚河岸の旦那衆や歌舞伎役者の名前などが刻まれている。
 西は常磐線金町駅の周辺で、駅の乗降客が増加するとともに市街地化し、商店街が形成された。なかでもすずらん通りと呼ばれていた商店街がにぎやかだった。金町浄水場の北側は、大正時代になって区内にできた大工場の幹部や、東京都心部に通勤するサラリーマンの邸宅が多かった。
 中は葛西神社の周辺で古くは金町で最も栄えた所であった。
 明治時代から昭和初期にかけて、金町ではお茶の栽培が行われており、『地誌取調簿』にも産物として掲載されている。
 明治10(1877)年にまとめられた『邨誌料編輯』注釈1によると、柴又には103戸の民家があり8隻の漁船があったことが記されている。柴又では名物として川魚料理が広く知られるようになるが、明治時代初期には江戸川の魚を提供していたのだろうか。
 柴又には帝釈天の名で知られる題経寺があり、60日に1度ある庚申の日には大勢の人が集まった。かつては、庚申の日の前日には宵庚申といって門前の料理屋で夜遅くまで参拝者が飲食する姿が見られた。江戸時代、題経寺の門前はふだんは閑散としていたが、庚申の日になると周辺の農家が草団子などを持ち寄って参拝客に販売するようになったのが現在の門前のにぎわいの始まりだという。
 明治44(1911)年から昭和5(1930)年にかけて、江戸川の改修工事が行われた。この工事によって大向にあった大鷲神社は葛西神社に移転した。移転後、現在に続く酉の市が開催されるようになった。柴又では、原という20軒ほどの集落が江戸川河川敷から移転した。
 柴又は、江戸時代から遊興や信仰のために多くの人たちが訪れていた地域である。江戸川に向かってのびやかに開かれた風景は今も多くの人たちを惹きつけている。

金町駅の駅舎 昭和24(1949)年
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柴又八幡神社の神獅子(葛飾区指定無形民俗文化財)(平成23〔2011〕年)

柴又八幡神社の祭礼の前日に奉納される三匹獅子舞。
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江戸川改修以前の料亭川甚(大正時代)

江戸川にごく近い場所にあった。
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注釈1:柴又副戸長鈴木幸七から東京府知事に明治10(1877)年に報告されたもの。