葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第4節 地域の移り変わり

■ :移り変わるきっかけ

 現在も時折、葛飾区に住む高齢の方から「東京へ行ってくる」という言葉を聞くことがある。葛飾区はまぎれもなく東京23区の1つであるが、その言葉からは東京の都心部と葛飾区は違うのだという意識を見て取ることができる。言いかえると、「東京」とは葛飾区の人々が生産したものを消費する町であり、そこに住む人たちと自分たちは需要する側と供給する側に分かれているという意識である。「東京」の生活文化を支えているのは我々なのだというプライドのようなものを感じる。
 葛飾の町が変化していったきっかけや年代は、区内でも一様ではない。また、そのきっかけは1つの出来事だけではない。
 例えば金町、新宿の人たちの暮らしの変化のきっかけとしては、三菱製紙中川工場が大正6(1917)年に金町に隣接する新宿5丁目にできたことを非常に印象強く語る人が多い。金町に昔から住む人たちにとってはこの工場の社宅に住む人たちはまぶしい存在であった。特に敏感であったのが子どもたちであり、「三菱の子どもとは弁当のおかずが違った」とか「三菱の子どもは靴を履いて学校に来てびっくりさせられた」などという話を聞くことがある。都会から農村へ新しい文化が
入って来たことをこうしたことから実感したのである。
 関東大震災で被災した東京下町の人たちが多く移り住んできたのは、四つ木、立石、堀切などである。これらの地域では、昭和初期に多くの町工場が建てられた。こうした工場は家内工業が多く、規模も小さかった。工場の周りには関連した仕事を請け負う下職や内職と呼ばれる人たちが住むようになった。太平洋戦争後はその傾向がいっそう顕著になった。
 これに対して水元や奥戸、金町の一部では都市化するスピードはゆるやかで、昭和30年代になっても農地が多く、稲作や畑作が行われていた。周辺の都市化に伴う環境問題に悩みながらも
昭和40年代まで農村の景観は残り、その一部は現代にも受け継がれている。
 これから記述する地域のくくりは、昭和7(1932)年に葛飾区が誕生する以前の、旧7カ町村別に拠っている。またカッコ内に表記されているのは、7カ町村に属する町名であるが、葛飾区が誕生した時点での名称を記している。

新宿小学校の入学式(昭和元〔1925〕年)

子どもの服装は着物に草履が多いが、なかには洋服に靴を履いている子どもも見られる。
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