葛飾区史

天祖神社の大しめ縄神事(葛飾飾区登録無形民俗文化財)


 奥戸の天祖神社では現在10月第3土曜日に大しめ縄神事と呼ばれる民俗行事が行われている。大しめ縄神事は、天祖神社の祭礼の前日に、神社の鳥居に架かっているしめ縄を掛け替えるものである。このしめ縄は約5mに及ぶ大きなもので、天祖神社の崇敬会の人たちを中心に一日がかりで新しいしめ縄を作る。関係者たちは「しめより」と呼んでいる。
(1) 行事の概要
 奥戸は昭和40年代まで水田が多い農村地域で、大しめ縄を作る材料は、かつては天祖神社の氏子たちがそれぞれ自分の家で収穫した新しい稲の藁を10束ほど持ち寄って作ることになっていた。奥戸から田んぼがなくなった現在は、祭りの時までに千葉県などの農家から藁を譲り受けている。かつては、稲刈りは鎌を使って手作業で行われていたため、藁を集めることは容易だったが、コンバインで瞬時に籾にしてしまう現在はどこの農村でも稲の藁を集めるのはたいへん難しい仕事である。
 大しめ縄を作り当日の朝、天祖神社の崇敬会の人たちの手によって集められた藁をすぐる作業がまず始められる。わらすぐりは、わらのくずを取り除いて縄などに加工しやすくする作業である。
 6m20cmに及ぶ大きなしめ縄は竹を芯にして、藁の束を括り付けるようにして作りあげる。そのため小さな藁束と藁縄を午前中にたくさん作り上げていく。年配者の多くはかつて藁仕事をしていた経験があり縄を綯うことはお手のものという人たちが健在である。
 ついで括り付けた藁の小束を3つにわけ、縄を綯うのと同じように縒りあげていく。これは力のいる仕事で男たちが大勢で行う。頭を瘤状にして、反対側はきれいに切りそろえてしめ縄らしくしていくが、真ん中付近を膨らませて作ることが昔からの習わしである。
 昼過ぎにかけて、新しい大しめ縄が作り上げられる。境内を掃除し、新しいしめ縄を前にして集まった人たちは車座になって手作りのごちそうに下鼓を打つ。
 日の暮れた夕方、この大しめ縄を担ぎ神社の周囲を一周した後いよいよ鳥居に大しめ縄が掛けられる。お囃子が演奏され、手慣れた人たちによって高々と鳥居に掛けられたしめ縄はこれから一年、天祖神社の境内にあって、奥戸の町を守っていくのである。

大注連縄を縒りあげる
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(2) 行事の変遷
 大しめ縄神事(しめより)は、江戸時代終わりころからいく度かの大きな変化があり、かつてはいまの行事とはかなり違った内容であった。そのことが天祖神社に保管されている祭礼の記録帳(年番帳)から知ることが出来る。この年番帳をもとに、聞き書き調査などの成果も含めて、大しめ縄神事の変遷を追ってみたい。まず、もっとも古い年番帳である「嘉永6年 神事舞社集覚帳」を始め、江戸時代の終わりから明治時代にかけての年番帳を見ながら古い形の大しめ縄神事を見ていくこととする。
 まず祭礼の日にちであるが、現在10月に行われている大しめ縄神事は江戸時代から明治の初めにかけて2月の初午に行われていたことがわかる。南関東地方の農村では2月初午は稲作の予祝行事が行われることの多い日であり、現在の祭礼日が10月であり、1年間の稲作がほぼ終了した後に行われるのとは全く逆であったことがわかる。
 そして、年番帳の表紙にある「神事舞社」とは「シンジブシャ」と読むことが適当である。ブシャとはやはり南関東地方の農村の年頭の行事として各地に分布している「歩射」行事のことであると考えられる。歩射行事とはその年の稲作の豊凶を占うために弓で的を射る行事である。各地で行われているが特に千葉県、埼玉県、茨城県に多く、神奈川県、東京都は比較的少ない。弓で的を射ると記したが、そうした行為を伴わずムラの人々による飲食のみで終わったり、別な形の豊作祈願の行為を行うところも少なくない。
 「別な形」のなかで多いのは藁で蛇の形を作り、村境などその集落のシンボリックなところに掛けておくという内容である。葛飾区周辺だと市川市国府台・三郷市大広戸・足立区保木間などで行われている。足立区保木間の行事は「じんがんなわ」と呼ばれるもので、1月7日に大乗院という寺院の境内で大きな二つのわら蛇を作り、境内の松の木に掛ける行事が現在も行われている。ふたつの蛇は雌雄で、これを合体させるように木に掛ける。
「ブシャ」とは呼ばれていないが、その他の地域で行われているわら蛇を作る歩射行事と類似性が高い。
 天祖神社の「神事舞社行事」の内容をもう少し見てみよう。明治23(1890)年8月の日付がある文書にはこういう記録がある。
*奥戸では2月に「舞社」と称する祭りを行い、9月にも神社の祭りを行っている。これははなはだ良くないことなので次のように改める。
*2月の舞社は廃止する。
*これからは9月25日に祭礼を行う。「七五三縒り」もその日に行うこととする。
*しめ縄を作ったならばすみやかに神社の境内に置くこと。
*酒は神社の境内でだけ飲み、みだりに他で飲んではいけない。
*奥戸の3つの庭からそれぞれ祭典委員の役員を2名ずつ出して準備にあたること。
*各家は9月24日までに3把以上10把までの藁束を祭典委員に提出すること。
*神社の宮田の耕作者を9月20日に入札で決める。この宮田の耕作料を祭典の経費に充てる。

しめ縄を作ったならばすぐに神社の境内に置くこと、というのは、かつてはこの大しめ縄神事では作ったしめ縄を担いで集落の中を回り、集落の家々を一軒残らず回って座敷の中を通り抜けすることが行われていたことを戒めたものであろう。この「通り抜け」の行為は聞き書きによると昭和30年代まで続き、夜通し担いで回るのでせっかく作ったしめ縄がぼろぼろになってしまうことが多かったという。またこの時に各家では担いでくる人たちに酒を出すのが常であり、しめ縄を担いで回る間に泥酔してしまう人があとを絶たなかった。明治23(1890)年のこの文書はそうしたことも戒めているのだろうが、どうやらまったく効果はなかったようである。
 そしてもうひとつ重要なことは、かつてはしめ縄を2本作っていたということである。このことは昭和20年代まで続いたので、経験者がまだおられる。そのお話によると、かつては雄雌2つの藁の蛇に似た作り物を作り、雌の蛇に見たてた藁のまんなか部分はふくらませて作ったものだという。これは雄雌の蛇が交尾し、雌が妊娠したことを示したものだという。ふたつのわら蛇は、かつて境内にあった榎の大木に縒り合わせるようにかけたものだと言われている。また、この様子を描いた絵馬が神社拝殿に保管されている。

かつての大注連縄神事の様子を描いた絵馬
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(3) まとめ
 天祖神社の大しめ縄神事はかつて葛飾区が農村であったことを今に伝える行事である。大しめ縄が出来上がったのちに行われる宴会の盛り上がりも、集落の人たちの手作りの温かさが残り、田んぼがなくなり畑が少なくなった今日も、農作業の豊作を感謝する心持が伝わってくる。
 しかしこの百数十年の間、祭りの内容は大きく変わった。現在のように10月の祭礼になったのは大正10年頃のことでそれまでの9月25日の祭礼を10月25日に改めた。
さらに現在のように第2土、日に改めたのは昭和40年代のことである。雄雌の蛇とする二つの藁縄を作っていた時代は昭和20年代で終了した。
 また、奥戸に隣接する奥戸新町の八釼神社にも二本の大しめ縄を奉納する祭りが昭和初期には残っていた。かつてはそれを示した絵馬も残っていた。
 むかしの奥戸の祭りを思わせる行事が周辺市町村にまだ残っていることを考えると葛飾区内の民俗行事が時代の流れや地域の変遷に敏感に対応して素早く形を変えてきたことが良くわかる。

注連縄を担ぐ人たち。

かつては奥戸の集落の家を一軒残らず回り、座敷の通り抜けをしたという
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